第十一話 死んだ村長の箱
前の村長の息子は、村はずれで羊を飼っていました。
ヨナス、という三十過ぎの男です。訪ねたとき、彼は柵の修繕をしていました。手を止めて、こちらを見上げます。
「辺境伯の奥方が、何のご用で」
「亡くなられたお父上の遺品について、伺いに参りました」
「遺品って、大したもんはありませんよ」
「書きつけの類が残っていないでしょうか。二年ほど前のものです」
ヨナスは眉を寄せました。
「親父は字が書けました。村長でしたから。ただ、死んだあと、俺は中身を見てません」
「見ていない、と申しますと」
「箱ごと、納屋に置いてあります」
彼は肩をすくめました。
「読めないんですよ、俺は」
◆
納屋は暗く、干し草の匂いがしました。
木箱は隅にありました。ヨナスが埃を払って蓋を開けると、紙束と、細々した物が出てきます。
「勝手に見ていいものかどうか」
「ご一緒に確かめさせてください」
私は膝をつきました。
出てきたのは、村の帳面が四冊。小作の割り当てを書いたもの、共有地の使用順、祭りの持ち回り。どれも村の内部の記録です。それから、古い手紙が数通。
その下に、羊皮紙が一枚ありました。
麻紐でくくられ、他の紙とは分けてあります。
私は紐を解きました。
◆
『覚』
冒頭にそう書かれていました。
覚書。誓約書ではありません。正式な書式を取らない、当事者間の確認文書です。効力は誓約術によらず、慣習と信用に支えられます。
本文は、六行でした。
『北の丘ヴァレ地区の境界を、東へ四十歩移す。この措置は二年を限りとする。二年を経たのち、ガルドウィン辺境伯家は境界を旧位置へ復するものとする。ドラン村の放牧権は、この間も継続して認める』
日付は、二年前の四月。
署名は二つ。
ガルドウィン辺境伯、と、ドラン村村長。
私は指先で、署名の下を確かめました。
術式署名は、ありません。覚書ですから、当然です。
けれど――その脇に、小さな印がありました。
例の、略式署名でした。
「ヨナスさん」
「はい」
「これは、大事なものです。お預かりしてもよろしいでしょうか」
「かまいませんが」
彼は覗き込みました。
「何が書いてあるんです」
「二年経ったら、丘の境を元に戻すと書いてあります」
ヨナスの動きが、止まりました。
「……二年」
「はい」
「もう、二年過ぎてますよね」
「先月、過ぎました」
彼は、しばらく紙を見つめていました。
それから、掠れた声で言いました。
「親父は、これを誰にも見せなかったんですか」
「分かりません。ただ、この箱に入れて、他の紙とは分けてありました」
「読めるやつが、いなかったんだ」
ヨナスは低く言いました。
「村に。俺も含めて」
◆
屋敷に戻り、私はセヴェリン様に覚書を渡しました。
彼は最後まで読んで、それから机に置きました。しばらく、何も言いませんでした。
「父の字だ」
やがて、彼は言いました。
「間違いない」
「略式署名も、帳簿のものと同じ形です」
「そうか」
セヴェリン様は椅子の背に身を預けました。天井を見上げるような姿勢でした。
「二年で戻すつもりだった」
「はい」
「なのに、境界誓約の第六条は、二年で確定すると書いている」
「矛盾しております」
私は言いました。
「ただ、矛盾は矛盾のまま、両立させられます」
彼が顔を戻しました。
「どういうことだ」
「境界誓約で二年間の確定期間を置き、その満了と同時に、復元の誓約を本署名で発効させる。そういう設計であれば、条文は矛盾しません」
私は白紙に線を引きました。
「二年間は異議を申し立てられない。だから、その間、モーリス子爵家は安心して丘を使える。二年が満了した瞬間、あらかじめ予約してあった復元誓約が発効し、境界が戻る。復元は異議ではありませんので、第六条には触れません」
「――技巧だな」
「かなり手の込んだものです」
私は認めました。
「先代様お一人で考えられたとは思えません。誓約術に相当詳しい者が、設計に関わっております」
「なぜ、そんな面倒なことを」
「分かりません」
私は言いました。
「二年、丘を貸す必要があった。ですが、貸したまま取り戻せなくなるのは避けたかった。だから、返してもらう約束を先に予約しておいた。そう読めます」
「貸す理由は」
「そこが、まだ読めません」
◆
沈黙が落ちました。
窓の外はもう暗く、灯りの油が小さく音を立てています。
「本署名は、どこにある」
セヴェリン様が言いました。
「探すべきものは、それだ」
「はい。ただ、順序がございます」
私は覚書を指しました。
「この覚書には、略式署名しかございません。本署名を入れる紙は、別にあります。おそらく、正式な復元誓約書の草案が、どこかに」
「屋敷にはなかった」
「書斎の書き物が持ち出されているとのことでしたので、そこにあった可能性が高いと思います」
「二年前に、誰かが持ち出した」
「はい」
私は言葉を選びました。
「持ち出した人物は、復元誓約の存在を知っていたことになります。知らなければ、ただの草案を選んで持ち去る理由がありません」
セヴェリン様の指が、机の上で一度、強く閉じられました。
「モーリス子爵家か」
「断定はできません。ただ」
私は言いました。
「モーリス家の正本にも、略式署名がありました。あちらの家令は、私が指摘したとき、紙を見ませんでした。知っている者の反応です」
「知っていて、二年間黙っていた」
「二年間、待てば確定すると思っていたのでしょう」
私は続けました。
「本署名の入っていない予約は、放っておけば発効しません。誰も気づかなければ、そのまま消えるのと同じです。ですから、こちらが何も言わずに二年を過ぎれば、丘は永久に向こうのものになる」
「――そして先月、二年が過ぎた」
「はい」
「なのに、こちらが動き出した」
セヴェリン様が言いました。
「境界確認の申し入れを出し、略式署名の話を持ち出した」
私は頷きました。
「面会を先延ばしにしている理由が、ここにあるかと存じます」
「時間を稼いでいる」
「はい。ただ、稼いだ時間で何をするつもりなのかは、分かりません。略式署名は放っておいても消えませんので、時間が経つほど向こうに利があるわけではないのです」
「では、何を待つ」
私は答えられませんでした。
答えられないまま、頭の隅で一つだけ、嫌な可能性が形になりかけていました。
◆
その夜、私は自室で覚書の写しを作りました。
原本は預かり物です。写しを二通作り、一通を屋敷の金庫へ、一通を自分の手元に置くことにしました。
書き写しながら、条文を頭の中で並べ替えます。
境界誓約。二年で確定。異議申立ての禁止。
覚書。二年を限りとする。二年後に復元する。
そして、どこかにある復元誓約の草案。本署名を待っている紙。
――待っている紙。
私はペンを置きました。
略式署名は、放っておいても消えません。
けれど、本署名を入れる紙が失われれば、どうなるでしょうか。
予約は残ります。残りますが、発効させる先がありません。永久に予約のまま、誰にも履行されないまま宙に浮きます。
つまり。
紙を持ち去った人間の目的は、隠すことではないのかもしれません。
燃やせば済むことです。二年前に燃やせば、今ごろ誰も何も見つけられませんでした。
燃やさずに、持っている。
持っていて、こちらが動き出したことを知って、面会を先延ばしにしている。
私は椅子の背に、深く身を預けました。
――使うつもりなのだ。
本署名を入れる権利は、当事者の双方にあります。ガルドウィン家が入れれば、境界は戻ります。
けれど、条文の書き方によっては。
書き方によっては、どちらか一方だけの署名で、別の何かが発効するように設計することもできます。
私は草案を見ていません。
見ていない紙が、この世界のどこかで、誰かの手の中にある。
灯りを消す気になれず、私は夜明けまで、条文の組み合わせを紙の上に並べ続けました。




