第十二話 三年の期限が、遠くなる
朝、私は書き上げた紙をセヴェリン様に見せました。
一晩かけて並べた、復元誓約の草案の想定です。考えられる条文の組み合わせを、七通り書き出しました。
「これは」
「見ていない草案の、あり得る形です」
私は説明しました。
「一番目から三番目までは、単純な復元誓約です。二年後に境界を旧位置へ戻す。それだけの内容。この形であれば、本署名を入れて困るのはモーリス家だけですので、こちらが持っていれば済む話です」
「では、なぜ向こうが持ち去る」
「四番目以降が、その答えになるかもしれません」
私は四枚目を示しました。
「復元誓約に、対価の条項を抱き合わせた形です。境界を戻す代わりに、ガルドウィン家が何かを負担する。金銭、権利、あるいは別の土地」
「抱き合わせ」
「はい。この形ですと、本署名を入れた瞬間、境界は戻りますが、同時に負担も発生します。負担の内容によっては、戻さないほうがましということもあり得ます」
セヴェリン様は、紙を一枚ずつめくっていきました。
「七番目は」
「一番悪い形です」
私は言いました。
「復元誓約の中に、単独署名で発効する条項が混ぜてある場合です」
「単独で」
「誓約書は原則として双方の署名で成立します。ただし、条文の書き方によっては、一方の署名だけで効力を生じる特約を置けます。片務誓約と申します」
「例えば」
「例えば、こういうものです」
私は書き出した文を指しました。
『甲が本書に署名した時点をもって、乙は甲に対する一切の請求権を失う』
「乙の署名が要りません。甲が一人で署名すれば、乙の権利が消えます」
セヴェリン様の指が、止まりました。
「そんなものが有効なのか」
「有効です。ただし、乙が事前にその条項を含む書面に略式署名を入れていることが条件になります」
私は覚書を示しました。
「先代様は、この覚書に略式署名を入れておられます。もし草案の中身が、覚書に書かれている以上のことを含んでいたなら――」
「父は、中身を確かめずに印を入れたことになるか」
「あるいは、確かめたうえで入れたか」
私は言いました。
「どちらにせよ、印は入っております。入っている以上、本署名を入れられる余地は残っております」
◆
「セヴェリン様。一つ、お尋ねしてよろしいでしょうか」
「言え」
「先代様が丘を貸された理由に、心当たりはございませんか」
彼は答えませんでした。
窓のほうを向いたまま、しばらく黙っていました。手袋をした左手が、机の縁に置かれています。
「――ある」
やがて、彼は言いました。
「確かめたことはない。だが、時期が合う」
「伺ってもよろしいですか」
「二年前の春、私は北の砦にいた」
セヴェリン様は言いました。
「国境で小競り合いがあった。三か月続いた。うちの領兵だけでは足りず、周辺から人と物を借りた。その中に、モーリス家があった」
私は息を詰めました。
「借りた対価が」
「記録にない。父は何も言わずに死んだ」
彼は左手を、ゆっくりと持ち上げました。
「そして、私はその砦で、これを負った」
手袋を、外しました。
◆
手の甲から手首にかけて、黒い紋が刻まれていました。
誓約の紋です。ただ、私が見慣れたものとは違いました。署名の紋は白く、成立の瞬間だけ浮かんで消えます。これは黒く、消えていません。
代償の紋でした。誓約を破った者に降りる印です。
「セヴェリン様、これは」
「破った覚えはない」
彼は静かに言いました。
「砦から戻ったときには、こうなっていた。父はもう死んでいた。誰に聞いても分からなかった」
「痛みは」
「ない。ただ、少しずつ広がっている」
私は近づいて、紋を見ました。触れずに、縁の形だけを確かめます。
代償の紋は、破られた条文の重さに応じて形が変わります。軽い違反なら細い線、重い違反なら太く広い。そして――
「セヴェリン様。この紋は、代償の紋ではありません」
彼が、こちらを見ました。
「何だと」
「代償の紋は閉じた形をしております。罰が確定しておりますので、輪郭が閉じるのです。これは、閉じておりません」
私は縁を指でなぞる仕草をしました。触れはしません。
「端が開いております。これは、履行待ちの紋です」
「履行待ち」
「誓約が成立し、まだ履行されていない条文がある場合に浮かびます。履行が済めば消えます。済まなければ、期限まで残り、期限が来た時点で代償の紋に変わります」
「――つまり」
セヴェリン様の声が、低くなりました。
「私は、何かの誓約の当事者になっている」
「はい。ご自身の知らないうちに」
私は言いました。
「そして、その誓約は、まだ履行されておりません」
◆
「広がっているというのは」
「期限が近づいている印です」
私は答えました。
「履行待ちの紋は、期限が近づくと少しずつ広がります。期限を過ぎれば、閉じて黒く固まります。そのとき、代償が確定します」
「期限がいつかは」
「紋からは読めません。誓約書の条文に書いてあります」
私は言いました。
「探すべき紙が、一枚増えました」
セヴェリン様は手袋をはめ直しました。
「二年、放っておいた」
「調べようがなかったのだと思います。紋を読める者が、この屋敷におりませんでしたので」
「――君が来るまで」
彼はそう言って、少し口をつぐみました。
私も、何も言いませんでした。
◆
その日の午後、私は自室で紙を広げました。
書き出すべきことが多すぎて、まず順番を決める必要がありました。
一、モーリス家が持っているであろう復元誓約の草案。中身不明。単独署名で発効する条項が含まれる可能性。
二、セヴェリン様の左手の履行待ちの紋。誓約書の所在不明。期限不明。
三、先代様が北の砦のために借りたもの。対価の記録なし。
四、八月の管理院手数料、四度分。案件不明。
五、モーリス子爵の面会先延ばし。理由不明。
書き出して、私は一つのことに気づきました。
すべて、同じ年に起きています。
二年前。四月に境界誓約と覚書。夏に国境の小競り合い。八月に管理院への四度の支払い。九月に先代様の死と、帳簿の中断。
一年のうちに、これだけのことが起きて、そのすべてが記録から抜けている。
抜けているのではありません。
抜かれているのです。
私はペンを置き、窓のほうを見ました。
三年の期限のことを、ふと思いました。
嫁いでひと月半が過ぎました。残りは二年と十か月ほど。長いようで、書類の山を思えば長くありません。
三年後、私はここを出ます。
出たあと、セヴェリン様の手の紋がどうなっているのかを、私は知らないままになります。
――知らないままでいい、と思えませんでした。
そう思ってしまってから、私は少し慌てました。
契約どおりに務める。それだけのはずでした。書かれたことを守り、書かれていないことは求めない。私はそうやって十年を過ごし、これからの三年もそうするつもりでいました。
けれど、条文のどこにも、「気にしてはならない」とは書かれていません。
書かれていないことは、禁じられていない。
昨日、管理院の規程で確かめたばかりの理屈でした。
私はペンを取り直し、一枚目の紙に、六番目を書き足しました。
六、期限の到来前に、紋の誓約書を見つけること。
期限が三年の内か外かは、まだ分かりません。




