第八話 三者の紙
モーリス子爵からの返答は、五日後に届きました。
『先般の件、確かに承りました。ただし当家は現在、王都の所用にて手が離せず、月を跨いでの面会となります。日取りは追ってご連絡いたします』
私はその三行を、二度読みました。
「セヴェリン様。これは、断りに近い返事です」
「断ってはいない」
「断ってはおりません。ただ、日取りを示しておりません。示さない返事は、待たせるための返事です」
「何を待っている」
「分かりません。ただ、待たせて得をするのは、時間の経過で有利になる側です」
セヴェリン様は、書状を机に置きました。
「略式署名に期限はないと、君は言った」
「はい。時間が経っても、予約は消えません」
「では、待っても向こうに利はないはずだ」
「本来は、そうです」
私は少し考えました。
「ですから、向こうが待っているのは、別のことかもしれません」
◆
三者誓約の締結は、翌日でした。
場所は、ドラン村とケール村の中間にある、街道沿いの古い水番小屋です。どちらの村からも歩いて来られる距離で、どちらの村のものでもありません。場所選びには、そういう意味があります。
ドラン村からガーロ村長と村の男が三人。ケール村からハンナ殿と、五人。それにセヴェリン様と私。
卓の上に、三通の同文を並べました。三者ぶんです。
「では、条文の読み上げをいたします」
私は立ち上がりました。
「すでに両村にはご説明済みですが、締結の場では全条を読み上げるのが決まりです。長くなりますので、途中で止めていただいて結構です」
「もう聞いたよ」
ガーロ村長が言いました。
「三刻もかけて」
「ここでは半刻で済みます」
「じゃあ、やってくれ」
私は読み上げを始めました。
第一条、三者の当事者。第二条、既存二通への優先。第三条、既存二通を破棄しないこと。第四条から第七条、月別の取水量。第八条、三者の合計。第九条、争いが生じたときの手続き。第十条、合計値の掲示。
途中、ハンナ殿が一度だけ手を挙げました。
「第九条の、争いが生じたときというのは」
「数字の解釈で揉めたときです。まず三者で協議し、まとまらなければ領主が裁定する、と書いております」
「領主が裁くのですか」
「はい。ただし」
私は続けました。
「領主も当事者の一人です。ですから、裁定に不服がある場合は、王都の管理院へ持ち込めると但し書きを入れております。第九条の後半です」
ハンナ殿が、ゆっくりと頷きました。
「領主を、疑ってよいと」
「疑ってよいと書いておかなければ、誓約書として不完全です」
セヴェリン様は、何も言いませんでした。
止められるかと思いましたが、彼はただ、卓の向こうで黙って聞いていました。
◆
読み上げが終わり、署名の段になりました。
ガーロ村長が先に立ちました。
「上流が先だな」
「順序に意味はございません。どなたからでも」
「いや」
村長は言いました。
「先に決まったのはこっちだ。だから、先に責任を取る」
彼は術式署名を落としました。掌に白い紋が浮かび、すぐに消えます。
次にハンナ殿が立ちました。手が少し震えていましたが、迷いはありませんでした。署名の紋が浮かんだとき、彼は掌をじっと見つめていました。
「熱くありませんな」
「はい。虚偽がございませんので」
「――そうですか」
最後にセヴェリン様が署名しました。
三つの紋が、それぞれの掌で消えました。
誓約が成立しました。
◆
小屋を出るとき、ガーロ村長が私を呼び止めました。
「奥方」
「はい」
「一つ、頼みがある」
彼はぶっきらぼうに言いました。
「うちの村に、テオって若いのがいるだろう。ケールまで一緒に行った」
「はい。お世話になりました」
「あれに、字を教えてやってくれんか」
私は少し驚きました。
「字を」
「読めるやつが村に一人でもいれば、次はこんなに手間をかけさせずに済む。あんたが三刻かける必要もなくなる」
「私は、手間だとは思っておりません」
「こっちが思うんだよ」
村長は顔をしかめました。
「毎回来てもらうわけにはいかんだろう。あんたは三年で――」
そこで彼は、口をつぐみました。
私も、黙りました。
三年で辺境伯家を出る。その話は、村にまで届いているようでした。当然かもしれません。婚姻誓約書の期限は、隠すようなものではありませんから。
「……悪かった」
村長が言いました。
「余計なことを言った」
「いいえ」
私は首を振りました。
「テオさんに、字をお教えします。誓約書を読むところまでは無理でも、数字と、日付と、名前が読めれば、ずいぶん違います」
「そこまでで十分だ」
「では、月に二度ほど、村へ伺います」
村長は、少しのあいだ私を見ていました。
それから、頭を下げました。深く、長く。
「頼みます」
◆
帰りの馬車で、セヴェリン様が口を開きました。
「字を教えるのか」
「はい。よろしかったでしょうか」
「かまわん。ただ、報酬の対象にならない」
「存じております」
「付属誓約は、誓約書の検分に対して払うものだ。読み書きを教えることは含まれていない」
「はい」
「含めるか」
私は顔を上げました。
「――え」
「付属誓約に一条足す。領内における読み書きの指導も、報酬の対象とする」
セヴェリン様は、窓の外を見たまま言いました。
「一人に教えるのも、二十人に教えるのも、君の時間を使うことに変わりはない。払わない理由がない」
私は膝の上で、手を握りました。
「あの、セヴェリン様」
「なんだ」
「私は、村長に頼まれたから引き受けたのです。報酬を求めて申し上げたわけでは」
「知っている」
彼はこちらを向きました。
「だから足すと言っている」
馬車が揺れました。
私は何か言おうとして、言葉が出ませんでした。
十年間、私がやってきた仕事は、報酬の対象ではありませんでした。求めなかったからではありません。求めるという発想が、なかったのです。家の仕事を家の者がするのは当たり前だと言われ続けて、私はそれを条文のように受け取っていました。
条文であれば、私は読み方を疑ったはずです。
自分に関することだけ、疑わずにいました。
「――ありがとうございます」
やっと、それだけ言いました。
セヴェリン様は、少し黙ってから、短く答えました。
「働いた分だ」
◆
屋敷に戻ると、玄関にバルトが立っていました。
いつもは表情の動かない家令が、めずらしく硬い顔をしていました。
「旦那様。奥様。王都より、使者が参っております」
「管理院か」
「いいえ」
バルトは言いました。
「アシュフィールド伯爵家の使者でございます。奥様に、直接お会いしたいと」
私は足を止めました。
「父が、人を寄越したのですか」
「使者は、伯爵ご本人の代理と名乗っております。応接間にお通ししております」
セヴェリン様が、私の顔を見ました。
「会うか」
「会います」
「一人でか」
私は少し考えました。
「いえ」
首を振りました。
「ご同席いただけますか」
彼は頷きました。
「妻の実家の使者だ。当主が出るのが筋だろう」
応接間の扉の前で、私は一度だけ、深く息を吸いました。
相場を書いた返事を出してから、十日が経っています。
十日で、王都から人が来た。それは、あの三行を読んだということです。
そして、返事を書いて済ませる気がなかったということでもありました。




