第七話 相場を書く
返事を書くのに、二日かかりました。
長いものを書いたわけではありません。十行ほどです。ただ、一行ごとに、何度も読み返しました。
『分類の規則は、存在いたしません』
一行目です。
『十年間、私が読んで処理しておりましたので、規則を紙に残す必要がございませんでした。私の頭の中にあったものを、そのまま書き出すことはできません。案件ごとに事情が異なるためです』
二行目から四行目。
ここまでは、事実です。
問題は、その先でした。
『今後、誓約書の処理が必要でしたら、読み手をお雇いになるのがよろしいかと存じます』
この一行を、私は三度書き直しました。
最初は「お雇いください」と書きました。命令に近い響きがあるので、直しました。次に「お雇いになってはいかがでしょうか」と書きました。柔らかすぎて、断りの意図が伝わりません。
最後に「よろしいかと存じます」に落ち着きました。
助言の形をしていて、実際には拒絶です。誓約書の条文でも、同じことをします。断るときほど、丁寧な言い回しで、意味を一つに絞る。
そして、最後の三行。
『王都における読み手の相場は、小作契約一件につき銀貨二枚、商会取引一件につき銀貨五枚、婚姻および相続の誓約は一件につき金貨一枚と伺っております。年間の件数からご判断ください』
私はこの三行を、書くべきかどうか、ずいぶん迷いました。
◆
「セヴェリン様。私信について、ご相談してもよろしいですか」
執務室で、私はそう切り出しました。
「私信」
「実家からの書状に、返事を書いております。内容が領地に関わりませんので、ご相談する筋合いではないのですが」
「聞こう」
セヴェリン様は書きものの手を置きました。
私は下書きを差し出しました。彼は最後まで読んで、それから顔を上げました。
「相場を書くのは、なぜだ」
「そこを迷っております」
私は正直に言いました。
「書かなければ、実家は読み手を雇う費用を知りません。知らなければ、雇わずに済ませようとして、また誰かに押し付けます。書けば、費用が分かります」
「押し付ける相手は、妹君か」
「妹は読めません。ですから、別の誰かになると思います」
「では、書くべきだろう」
「はい。ただ」
私は言葉を選びました。
「相場を書くということは、私が十年、無償で担っていた仕事の値段を、書面で示すということでもあります」
執務室が、静かになりました。
「――ああ」
セヴェリン様が、低く言いました。
「そうか」
「婚姻誓約書の第七条で、私は実家への債権を主張できません。過去の分は、もう請求できないのです。ですから、相場を書いても、一銭も受け取れません」
「なのに、書くのか」
「書けば、父は計算します」
私は言いました。
「年間の件数を、私は覚えております。小作契約が四十件ほど、商会取引が二十件ほど、婚姻と相続が数件。相場を掛ければ、金額が出ます。父は、その金額を目にすることになります」
「金額は」
「金貨で、十五枚ほどかと」
セヴェリン様の眉が、わずかに動きました。
「年に十五枚を、十年」
「はい」
「――ずいぶん、静かな請求書だな」
私は少し、答えに詰まりました。
そういうつもりで書いたのかどうか、自分でも分かりません。ただ、正確に書こうとすると、こうなるのです。誓約書もそうです。正確に書けば、書かれた側にとって都合が悪くなることがある。それは、書き手の悪意ではありません。
「請求はしておりません」
私は言いました。
「相場を申し上げただけです」
「そうだな」
セヴェリン様は下書きを返しました。
「書けばいい。ただし、一つ足せ」
「はい」
「差出人を、ヴィオラ・ガルドウィンにしろ」
私は手を止めました。
「……アシュフィールドではなく」
「君はもう、この家の者だ。実家に助言を出すのは、他家の人間としてだ」
「ですが、私は三年後に――」
「三年後の話をしている」
彼は言いました。
「今日ではない」
◆
書状を出した三日後、境界確認の日が来ました。
モーリス子爵領との境、北の丘。新しい杭が、南北に列を作っています。
先方は五人で来ていました。子爵本人ではなく、代理の家令と、書記官が二人。それと護衛。
「ガルドウィン辺境伯におかれましては、ご壮健で」
家令は如才のない挨拶をしました。四十がらみの、目のよく動く男でした。
「境界の最終確認を、ということでしたな」
「慣例どおりに」
セヴェリン様が短く答えました。
「正本はお持ちか」
「もちろんでございます」
書記官が革の筒を開き、羊皮紙を取り出しました。丘の上に据えた簡易の卓に、二通が並べられます。ガルドウィン家の正本と、モーリス家の正本。
私は一歩前に出ました。
「拝見いたします」
「そちらの方は」
家令が、初めてこちらを見ました。
「妻だ」
セヴェリン様が言いました。「読み手を務めている」
家令の目が、ほんのわずか、細くなりました。
「奥方が、読み手を」
「そうだ」
「――なるほど。人手不足は、どちらも同じでございますな」
含みのある言い方でした。
私は聞き流して、二通を並べて見比べました。
条文は同じです。第一条から第八条まで、一字の違いもありません。境界を東へ四十歩、二年で確定、以後異議を申し立てない。
対価の条文は、やはりありません。
そして――
モーリス家の正本の、欄外。
そこにも、小さな印がありました。
◆
心臓が一度、強く鳴りました。
私は表情を動かさないようにして、指で条文をなぞる仕草を続けました。
同じ形です。帳簿の隅にあった、あの略式署名と。
「奥方」
家令が声をかけました。
「何かご不審でも」
「いいえ」
私は顔を上げました。
「条文は完全に一致しております。境界の確定に、問題はございません」
「それは何より」
「一点、確認をよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「欄外に、略式署名がございます」
家令の表情は、変わりませんでした。
変わらなかったことが、答えでした。知らなければ、まず紙を覗き込むはずです。
「ああ、それでございますか」
彼は落ち着いた声で言いました。
「先代様同士が、何か話しておられたようでして。詳しいことは、私どもも存じません」
「本署名は、入っておりませんね」
「入っておりません」
「では、この予約は、まだ生きております」
私はそう言いました。
家令の指が、卓の縁で一度だけ止まりました。
「――生きている、と申しますと」
「略式署名に期限はございません。本署名が入れば、その時点で誓約が成立いたします。二年前であろうと、今日であろうと、同じことです」
私は二通の正本を、丁寧に揃えました。
「つまり、この二通には、まだ何かを書き足せる余地があるということになります。境界は確定しておりますが、予約された何かは、確定しておりません」
丘の上を、風が渡っていきました。
セヴェリン様が、静かに口を開きました。
「その何かを、そちらはご存じか」
「存じません」
家令は即答しました。
「先代様のなさったことでございますので」
「では、こちらも同じだ」
セヴェリン様は言いました。
「双方が知らぬ予約が、二通の正本に残っている。宙に浮いたままにしておくのは、双方にとって良くない」
「ごもっともで」
「後日、子爵殿と直接お話ししたい。日を頂戴できるか」
家令は、ほんの少しだけ間を置いてから、頭を下げました。
「主に伝えます」
◆
帰り道の馬車で、私は膝の上で手を組んでいました。
「セヴェリン様」
「なんだ」
「あの家令は、知っております」
「私もそう思う」
「私が略式署名の話を出したとき、紙を見ませんでした。知らなければ、まず確かめるはずです」
セヴェリン様は窓の外を見ていました。丘の上の杭の列が、遠ざかっていきます。
「もう一つ、気になったことがございます」
「言ってくれ」
「モーリス家の正本の印は、こちらの帳簿にあった印と、同じ形でした」
「当然だろう。同じ術式なら形は同じだ」
「いいえ」
私は首を振りました。
「略式署名の形は、術者ごとに固有です。筆跡と同じで、真似られはしますが、まったく同じにはなりません。ですから――」
私は言葉を選びました。
「帳簿の欄外にあった印と、モーリス家の正本にあった印は、同じ人物が入れたものです」
馬車の中が、静かになりました。
「父の帳簿だ」
セヴェリン様が言いました。
「父が、モーリス家の正本にも印を入れた、ということになるか」
「そうなります。ただ」
私は続けました。
「もう一つの読み方がございます。帳簿の欄外に印を入れたのが、先代様ではなかった場合です」
風の音だけが、車輪の音に混じっていました。
「そのときは」
セヴェリン様が、低く言いました。
「モーリス家の正本に印を入れた人間が、我が家の帳簿にも触れたことになる」
私は頷きました。
葬儀の前後に、書斎が荒れていた。
彼はそう言っていました。




