第六話 予約された誓約
略式署名について、私の知識は多くありません。
読み手の講本には、二行しか書かれていない項目です。「本署名前の予約的表示。単独では効力を生じない」。それだけ。実務でもほとんど見ません。予約をするくらいなら、本署名まで済ませてしまうほうが早いからです。
「セヴェリン様。略式署名を残す理由は、どのようなときでしょうか」
「本署名を、まだ入れられないときだ」
彼は帳簿を閉じずに、その頁を見下ろしていました。
「条件が揃っていない。あるいは、相手方の署名が先に必要で、それを待っている。そういう場合に、当事者の一方が先に意思を示す」
「待っているあいだ、この印はどうなりますか」
「消えない。本署名が入れば誓約が成立し、入らなければ、そのまま残る」
「期限は」
「ない」
私はもう一度、欄外の印を見ました。
黒く、小さく、簡素です。二年間、誰にも読まれないまま、この頁の隅で待ち続けていたことになります。
「先代様のものでしょうか」
「筆跡は父のものだ」
セヴェリン様は言いました。
「ただ、略式署名は筆跡ではない。術式の形だ。形が同じなら、真似ることもできる」
◆
翌日から、私は残った三冊を精査しました。
朝から夕まで、数字を一つずつ追います。春の分に不審はありません。夏の分にもありません。領地の出納は堅実で、むしろ切り詰めすぎているくらいでした。
異常が見えたのは、三冊目でした。
八月の支出欄に、同じ名目の項目が四回並んでいます。
『管理院手数料』
金額はそれぞれ違いますが、いずれも小さくありません。四回分を合わせると、この領地の一月ぶんの収入に届きます。
私は執務室へ向かいました。
「セヴェリン様。八月に、王都の管理院へ四度、手数料が支払われています」
「何の手数料だ」
「名目はそれだけです。案件が書かれていません」
「珍しいのか」
「珍しくはありません。ただ」
私は帳簿を開いて見せました。
「四月から七月までの四か月で、管理院への支払いは一度もありません。八月だけ四度です。何かをまとめて処理されたのだと思います」
「境界誓約は四月だ」
「はい。四月の時点では、管理院を通していません。領内完結の誓約ではありませんので、本来は通すべきものです」
セヴェリン様の指が、机の上で止まりました。
「通していない誓約を、後から通したということか」
「順序としては、そうなります」
私は続けました。
「そして、管理院からの回答では、付属誓約は記録がないとのことでした。四度の手数料のうち、少なくとも一度は境界誓約の登録費用でしょう。残る三度が何だったのかは、この帳簿からは読めません」
「請求書は」
「探しましたが、ありません」
執務室に、しばらく沈黙が落ちました。
「管理院に問い合わせられるか」
「できます。ただ」
私は少し迷って、言いました。
「先日の写し請求で、こちらが何かを探していることは、もう管理院に伝わっております。二度目の請求を出せば、いっそう目立ちます」
「目立つと困るか」
「困るかどうかは分かりません。ただ、目立たずに済む方法があるなら、そちらを先に試すべきかと」
「方法があるのか」
「モーリス子爵領の側から確かめる方法が、一つあります」
◆
「境界誓約は、二者で結ばれています」
私は白紙に線を引きながら説明しました。
「両者が同文を持ちます。こちらの写しはありました。ならば、モーリス子爵家にも一通あります」
「向こうに見せろと言うのか」
「いいえ。見せていただく必要はありません」
私は線の端に、小さく印を書きました。
「確かめたいのは、向こうの正本にも、この略式署名があるかどうかです。あれば、両家のあいだで何かが予約されていたことになります。なければ、先代様が一人で何かを予約されていたことになります」
「意味が違ってくるな」
「まったく違います。前者なら交渉ごと、後者なら――」
私はそこで言葉を切りました。
「後者なら、何だ」
「先代様が、誰か別の相手と、何かを結ぼうとしていたことになります。モーリス子爵とは無関係の話です」
セヴェリン様は、しばらく黙っていました。
「どうやって確かめる」
「境界の杭の確認を、名目にいたします」
私は言いました。
「二年の異議申立期間が満了しましたので、確定した境界を双方で最終確認する。慣例としてある手続きです。形式的なものですから、断る理由がありません」
「その場で、正本を出させると」
「確認手続きには正本の持参が要ります。慣例です。ですから、こちらが求めなくても、向こうが持って参ります」
セヴェリン様が、こちらを見ました。
「――君は」
言いかけて、彼は口をつぐみました。
「なんでしょうか」
「いや」
彼は帳簿を閉じました。
「日を決めてくれ。私も出る」
「セヴェリン様が」
「境界確認は領主の仕事だ。妻に行かせるものではない」
「では、私は」
「同行してくれ。読める者が要る」
◆
三日後の朝、ケール村から使いが来ました。
ハンナ殿からの返答でした。村として、新誓約に合意する。ただし条件が一つ。
『第八条の合計値を、毎年、乾期の前に村の集会所へ掲示すること』
私はその一文を、二度読みました。
「セヴェリン様。ケール村が合意いたしました。条件が一つ付いております」
「聞こう」
「合計値の掲示です。年に一度、乾期の前に」
「意味は」
「監視です」
私は言いました。
「三者の数字を村人が見られる場所に貼れという意味です。誰かが上限を超えていないか、村が自分の目で確かめられるようにしてくれ、と」
「読めない者が多いはずだ」
「数字は読めます」
私は少し笑いました。
「ドラン村でも、村長は数字を見比べました。文字は読めなくても、数字の形は覚えられます。それで十分なのです」
セヴェリン様は、その紙をしばらく見ていました。
「――受ける」
「よろしいのですか。掲示の手間が毎年かかります」
「かかる手間より、疑われ続ける損のほうが大きい」
彼は言いました。
「父の代は、それで何を失ったか分からなくなっている」
私は頷いて、草案に第十条を書き加えました。
『領主は、毎年乾期の前に、前条の合計値を両村の集会所に掲示する』
一行増えました。誓約書は長くなるほど読みにくくなりますが、この一行は入れるべきものでした。
◆
三者誓約の締結は、七日後と決まりました。
その準備をしていた夕方、バルトが執務室へ入ってきました。
「奥様。王都より、書状が届いております」
「管理院からでしょうか」
「いえ」
家令は、少し言いにくそうにしました。
「アシュフィールド伯爵家からでございます」
私は手を止めました。
嫁いでから、ひと月近くが経っています。実家からの便りは、これが初めてでした。
封を切ります。妹の字でした。
『お姉さま、お元気ですか。こちらは大変です。誓約書がたまってしまって、お父さまが困っています。お姉さまが使っていた分類の決まりを教えてください。急ぎでお願いします』
それだけでした。
身体を気遣う言葉はありません。辺境の暮らしを尋ねる言葉もありません。
私は書状を膝の上に置いて、しばらく窓の外を見ていました。
分類の決まり、というものはありません。
十年かけて、私は積まれた誓約書を、期日と案件と相手方で頭の中に並べていました。紙に書いた規則はありません。書く必要がなかったからです。私が読めば済むことでしたから。
つまり、教えられることは何もありません。
「奥様」
バルトが、静かに声をかけました。
「お返事は、いかがなさいますか」
私は、少し考えました。
婚姻誓約書の第七条を思い出します。花嫁は、婚姻の期間中、実家に対する一切の債権を主張しない。父が私の十年分を潰した条文です。
あの条文は、私が請求することを禁じています。
けれど、実家が私に何かを求めることは、一言も許可していません。
「お返事は書きます」
私は言いました。
「ただ、少し時間をいただきます。正確に書きたいので」
書くことは決まっていました。
分類の規則は存在しない。私が処理していたので、規則は不要だった。今後必要であれば、読み手を雇用されるのがよろしいかと存じます。相場は、一件につきいくら。
――正確に、書くつもりでした。




