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離縁の日まで、契約どおりに愛しません ~冷酷と噂の辺境伯に嫁いだ誓約術師は、三年で出ていく予定でした~  作者: やまご


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第五話 書かれなかった対価

記録がない、という一行を、私は三度読みました。


「セヴェリン様。この回答は、二つのことを意味します」


「聞こう」


「一つ。付属誓約は結ばれなかった。つまり本当に無償譲渡だった場合」


「もう一つは」


「誓約書以外の形で、対価が渡った場合です」


私は書面を机に置きました。


「誓約書に書かなければ、術は発動しません。代償も降りません。その代わり、後から誰も証明できません。証明できないやり取りをするのは――記録に残したくないときです」


執務室が静かになりました。


セヴェリン様は、手袋をした左手を机の上に置いていました。指は動きません。


「父が、記録に残せない金を受け取ったと」


「そこまでは申し上げておりません」


私は言いました。


「金とも限りません。土地の対価が、必ずしも金であるとは限りませんので」


「では何だ」


「分かりません」


私は正直に答えました。


「分かるのは、境界誓約が二年前の春に結ばれ、その半年後に先代様が亡くなられた、ということだけです。そして、この二つに関係があるかどうかも、私には分かりません」


セヴェリン様は、しばらく黙っていました。


やがて、彼は短く息を吐きました。


「君は、断定をしないな」


「書けないことは、書きません」


「不便ではないか」


「便利にすると、後で崩れます」


   ◆


翌朝、ケール村へ発つ前に、私は執務室へ寄りました。


「セヴェリン様。境界の件で、一つお願いがございます」


「言ってくれ」


「先代様が亡くなられた前後の、屋敷の出納簿を拝見できますでしょうか」


彼の視線が、こちらへ向きました。


「出納簿を」


「はい。誓約書として残っていないものは、誓約書からは追えません。ですが、金が動いていれば、帳簿には出ます。逆に、何も動いていなければ、対価は金ではなかったということになります」


「消去法か」


「はい。遠回りですが、確かです」


セヴェリン様は少しのあいだ考えて、それから頷きました。


「バルトに言っておく。ただし」


「はい」


「二年前の分は、あるかどうか分からん。父の書斎は、死後に一度荒れている」


「荒れている、と申しますと」


「葬儀の前後で、誰かが探した跡があった。私は当時、北の砦にいた」


私は口の中で、その言葉を繰り返しました。


葬儀の前後。屋敷に人が出入りする時期です。


「承知いたしました。ある分だけで結構です」


   ◆


ケール村は、ドラン村より大きな集落でした。


下流にあたるぶん土地は肥えていて、家も立派です。集会所も石造りでした。


同行してくれたドラン村のテオが、先に中へ入りました。しばらくして、渋い顔の男たちに囲まれた格好で出てきます。


「奥様。話は聞くと言ってます。ただ」


「ただ」


「上流が先に決まったと言ったら、機嫌が悪くなりました」


「当然だと思います」


私は馬車を降りました。


集会所の中には、二十人ほどが待っていました。ドラン村の倍です。中央に座った白髪の男が、こちらを見上げました。


「ケール村の代表を務めております、ハンナ、と申します」


思ったより静かな声でした。


「ヴィオラ・ガルドウィンと申します。取水誓約のご相談に参りました」


「上流の数字は、動かさないそうですな」


「はい」


「では、こちらだけが減る」


「乾期の上限は下がります」


私は正面から答えました。ここで言葉を濁せば、後がありません。


集会所がざわつきました。


「話にならん」と誰かが言いました。「上流の言い値じゃないか」


「順序の話をさせてください」


私は書類を卓に広げました。


「今、ドラン村とケール村の誓約は矛盾しています。合計すると川の流量を超えます。乾期が深い年には、どちらかが必ず破ります」


「破るのは向こうでしょう。上で取りすぎるんだ」


「いいえ。破るのは、ケール村です」


集会所が、静まりました。


   ◆


「なぜ、そう言えるのです」


ハンナ殿が、静かに聞きました。


「上流が先に取るからです」


私は言いました。


「ドラン村が上限まで取っても、条文は破っていません。取れる量が書いてあり、その範囲で取っているだけですから。その結果、下流に水が足りなくなったとしても、ドラン村に代償は降りません」


「……こちらは」


「ケール村の誓約書には、乾期に確保すべき取水量が書かれています。確保できなければ、条文どおりに履行できていないことになります。履行できない側に、代償が降ります」


「そんな理不尽な」


「理不尽です」


私は認めました。


「ですが、二通の誓約書はそう書かれています。上流には上限が、下流には確保量が書かれている。同じ川の話をしているのに、書き方が違うのです。おそらく、別々の年に、別々の人が書いたのだと思います」


ハンナ殿は、卓の上の古い写しに手を伸ばしました。皺の寄った指が、条文の上を辿ります。


「……確かに、書き方が違いますな」


「はい」


「では、このままでは、乾期にこちらだけが罰を受ける」


「そうなります」


集会所の空気が、変わりました。


怒りではなく、もっと重いものが降りてきた感じでした。


「新しい誓約では、どうなるのです」


「三者ともに、上限で書きます」


私は草案を示しました。


「ケール村も、確保量ではなく上限になります。上限は、確保できなくても破ったことになりません。乾期にどれだけ川が細っても、代償は降りません」


ハンナ殿の手が、止まりました。


「……代償が、降りない」


「はい」


「数字は減るのに」


「数字は減ります。ですが、罰を受ける立場から外れます」


私は、少し言葉を選びました。


「どちらを取るかは、ケール村がお決めになることです。今の誓約のまま、多い数字を持ったまま代償の危険を抱え続けるか。数字を下げて、危険を手放すか。私は、どちらがよいとは申しません」


ハンナ殿は、長いあいだ黙っていました。


周りの男たちが何か言いかけるのを、彼は手で制しました。


「奥方」


「はい」


「乾期は、あと何年で深くなりますか」


「分かりません」


私は答えました。


「川のことは、私の仕事ではありませんので。ただ、二年続けて浅かったということは、覚えておいでかと思います」


ハンナ殿が、ゆっくりと頷きました。


   ◆


九条の説明が終わったのは、日が傾いてからでした。


ハンナ殿は最後に、こう聞きました。


「奥方は、ドラン村でも同じだけ話されたのですか」


「三刻ほど」


「ここは、それより長い」


「条文が同じでも、聞き手が違いますので」


彼は、初めて少しだけ表情を緩めました。


「前の書記官は、紙を置いて、署名をと言うだけでした」


「伺っております」


「あの方が悪いとも思いません。人が足りなかったのでしょう」


ハンナ殿は、卓の上の草案を手元に引き寄せました。


「三日ください。村の者と話します」


「承知いたしました」


「それと」


「はい」


「ドラン村の数字が動かないというのは、本当ですな」


「本当です。同じ紙に書かれますので、三者ともお互いの数字が見えます」


ハンナ殿は、深く頷きました。


「――それが、一番大きい」


   ◆


屋敷に戻ると、玄関にバルトが立っていました。


「奥様。旦那様がお呼びでございます」


執務室の机の上には、革表紙の帳簿が三冊、積まれていました。


「二年前の出納簿だ」


セヴェリン様が言いました。


「三冊しか残っていない。春と、夏と、秋の初めまでだ」


「秋以降は」


「ない」


先代が亡くなったのは、秋だと聞いています。


私は一冊目を開きました。手書きの数字が並んでいます。慣れた筆跡です。前任の書記官のものではなく、もっと古い、几帳面な字でした。


春の項を追っていきます。境界誓約が結ばれたのは、四月。


四月の入金欄には、大きな数字がありません。


五月にも、六月にもありません。


「金は、動いておりません」


私は顔を上げました。


「少なくとも、この帳簿には」


「では、対価は金ではなかった」


「その可能性が高まりました。ただ」


私は三冊目を手に取りました。秋の初めまでの分です。


最後の記載は、九月の半ばで途切れていました。


そして、その最後の頁に、一行だけ、他とは違う筆跡がありました。


数字ではありません。文字でもありません。


短い記号のような印が、欄外に一つ。


「セヴェリン様。これは、何かご存じですか」


彼が身を乗り出しました。


しばらく見つめて、それから、ゆっくりと言いました。


「……誓約術の、略式署名だ」


「略式」


「本署名の前に、当事者が予約として入れるものだ。本署名を入れるまでは効力を持たない」


私は指先が冷えるのを感じました。


「本署名は、どこにあるのでしょう」


セヴェリン様は答えませんでした。


答えられなかったのだと思います。


この帳簿の続きは、この屋敷にありません。


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