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離縁の日まで、契約どおりに愛しません ~冷酷と噂の辺境伯に嫁いだ誓約術師は、三年で出ていく予定でした~  作者: やまご


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第四話 村人は、条文を読めない

ドラン村へ向かったのは、翌々日の朝でした。


セヴェリン様は同行しませんでした。「領主が出れば、村は反対できなくなる」というのが理由です。合意を取るための場に、断れない相手を連れて行かない。理屈は分かります。


代わりに、御者と護衛が一人ずつ付きました。


「奥様、村長のガーロという男は口が悪うございます」


御者の老人が、道すがら教えてくれました。


「悪気はないのですが、まあ、譲りません」


「譲らないのは、悪いことではありません」


「そうでございますか」


「ええ。譲らない相手は、何を守りたいのかがはっきりしていますから。書きやすいです」


御者は少し笑いました。


   ◆


ドラン村の集会所は、板張りの粗末な小屋でした。


十人ほどが集まっています。中央に座った五十がらみの男が、腕を組んでこちらを見ていました。それがガーロ村長でした。


「辺境伯の奥方が、じきじきに何の用です」


「取水の誓約について、ご相談に参りました」


「相談。結局は、減らせという話でしょう」


「いいえ」


私は書類を出し、卓に広げました。


「減らしません。現在の乾期の上限を、そのまま保ちます」


村長の眉が動きました。


「じゃあ、何の用です」


「ドラン村とケール村の取水誓約が、矛盾しております。合計すると川の流量を超えます。乾期が深くなった年に、どちらかが必ず条文を破ることになります。破れば、代償が降ります」


集会所が静かになりました。


代償という言葉には、この国の誰もが反応します。


「……こっちが破るとは限らんでしょう」


「はい。ケール村が破るかもしれません。どちらになるかは、川が決めます」


「川が」


「上流が先に取れば、下流が足りません。下流が上限まで取ろうとすれば、上流の誓約が邪魔になります。どちらが悪いという話ではありません。両方守ることが、物理的にできないだけです」


村長は、しばらく黙っていました。


それから、卓の書類を顎で示しました。


「読めませんよ、俺たちは」


そう言った声には、少し刺がありました。


「前の書記官も、書類を持ってきて、ここに署名しろと言うだけだった。何が書いてあるのか説明しろと言ったら、説明しても分からんでしょうと言われた」


集会所の空気が、わずかに固くなりました。


私は書類を裏返しました。白い面を上にして、卓に置きます。


「では、書きません」


「は」


「口で申し上げます。九条ありますので、一つずつ。分からないところで止めてください」


村長が、目をしばたたきました。


   ◆


「第一条。この誓約は、ドラン村、ケール村、ガルドウィン辺境伯領の三者で結びます」


「三者」


「はい。今までは村と領主の二者でした。今度は、ケール村もこの紙に署名します」


「向こうも、同じ紙に」


「同じ紙です。ですから、向こうがいくら取るのかも、この紙に書かれます。ドラン村から見えるところに」


村長の腕が、少しほどけました。


「第二条。この誓約は、今までの二通より優先します。中身が食い違ったときは、こちらが勝ちます」


「今までの紙は、破るのですか」


「破りません。第三条にそう書きます。今までの誓約は残したままです」


「残したまま、こっちが勝つ」


「はい」


「……なぜ、残すんです」


いい質問でした。


「破棄すると、破棄したことを誰かが嘘だと言い出せるからです。残しておけば、両方の紙が並びます。並んでいれば、後から誰も『そんな約束はなかった』とは言えません」


村長は、しばらくこちらを見ていました。


「第四条から第七条までは、月ごとの取水量です。四月から九月まで、一月ずつ数字が入ります。この数字は、今のドラン村の上限と同じです。減っていません」


「同じ、と言われても」


「確かめてください」


私は書類を表に返し、古い誓約書の写しを隣に並べました。


「読めなくても、数字は同じ形をしています。この位置と、この位置。見比べてください」


村長は身を乗り出しました。太い指が、二枚の紙を交互に押さえます。


しばらくして、彼は顔を上げました。


「同じだ」


「はい」


「同じなら、なんで結び直す必要が」


「合計が変わるからです」


私は最後の一枚を出しました。


「第八条に、三者の合計が書かれます。この数字が、川の流量を超えません。ドラン村の取り分は変わらないのに、合計は超えなくなります」


「そんなことが」


「ケール村の乾期の上限が、今より下がります」


集会所が、また静かになりました。


村長が、ゆっくりと言いました。


「向こうは、飲むんですか」


「まだ話しておりません。ドラン村が先です」


「なぜ、こっちが先で」


「上流だからです」


私は言いました。


「上流が先に決まっていれば、下流は残った水を分けるしかありません。逆にすると、上流はいくらでも取れると言い出せます。順序を変えると、結果が変わります」


村長は、口を開いて、閉じました。


それから、少し掠れた声で聞きました。


「……奥方は、こっちの味方をしているんですか」


「いいえ」


私は首を振りました。


「私は、誰も代償を受けないように書いているだけです。結果として、今回はドラン村の数字が動きませんでした。次に何かを書くときは、逆になるかもしれません」


「正直なことで」


「誓約書の中では、嘘がつけませんので」


村長が、初めて短く笑いました。


   ◆


第九条まで説明し終えたとき、日は高くなっていました。


「一つ聞いていいですか」


村長が言いました。


「前の書記官は、なぜこれをやらなかったんです。二通が食い違っているのは、あの人も気づいていたはずだ」


「気づいておられたと思います。束の一番上に置いてありましたので」


「なら、なぜ」


「王都の管理院を通す必要があると考えられたのだと思います。手数料が、村の年貢の何倍かになります」


「そんな金は出ませんよ」


「ええ。ですから、領内で完結させます。領主の承認だけで成立しますので、費用はかかりません」


村長は、卓の上の紙をじっと見下ろしました。


「……あの人は、それを知らなかったんですか」


「知らなかったのか、面倒だったのかは、私には分かりません」


私はそう答えました。


分からないことは、分からないと言う。それだけのことです。


村長は大きく息を吐いて、腕を組み直しました。


「ケール村のやつらは、頑固ですよ」


「存じております」


「向こうにも、これを口で説明するんですか。九条ぜんぶ」


「はい」


「……何度も」


「必要な回数だけ」


村長は、少しのあいだ黙っていました。


それから、卓の脇に立っていた若い男を呼びました。


「おい、テオ。お前、ケールに従兄弟がいたろう」


「いますけど」


「奥方を連れて行け。門前払いされたら、お前が中に入って口をきけ」


「村長」


「上流が先に決まった、と言え。それだけ言えば、向こうも聞く耳を持つ」


私は頭を下げました。


「ありがとうございます」


「礼を言われることじゃない」


村長は、ぶっきらぼうに言いました。


「うちの数字が減らんのなら、俺は文句を言わん。ただそれだけです」


   ◆


村を出るとき、御者の老人が言いました。


「よろしいのですか、奥様。あんなに時間をかけて」


「といいますと」


「口で説明するだけなら、四半刻で済んだでしょうに。三刻もかかっております」


私は馬車の窓から、遠ざかる集会所を見ました。


「読めない人に署名させた誓約書は、後で必ず揉めます」


「揉めますか」


「読んでいないのですから、当然です。何が書いてあるか知らないまま署名した人は、都合が悪くなったときに『聞いていない』と言います。そして、その主張は、しばしば正しいのです」


御者は、しばらく黙って手綱を握っていました。


「前の書記官どのは」


「はい」


「署名だけ取って、帰っておられました。半刻もかからずに」


「そうですか」


私は膝の上で、書類の束を揃えました。


半刻で取った署名は、半刻ぶんの重さしか持ちません。三刻かけた署名は、三刻ぶんの重さを持ちます。誓約術は、そこまでは測ってくれません。


測れないところを埋めるのが、読み手の仕事です。


   ◆


屋敷に戻ったのは、日が落ちてからでした。


執務室に灯りが点いています。扉を叩くと、セヴェリン様が顔を上げました。


「戻ったか」


「ドラン村の合意を取りました。ケール村へは明日、村の若い方が同行してくださいます」


「一日で取れたのか」


「一日かかりました」


私はそう言い直しました。彼は少し、間を置きました。


「――そうか」


それから、机の上の紙を一枚、こちらへ滑らせました。


私は受け取って、目を落としました。


管理院からの、書面の写し請求に対する回答でした。日付は今日。差出は王都です。


『ご請求の付属誓約書につきましては、当院に記録がございません』


記録がない。


写しが保管されていないのではなく、そもそも登録されていない、という意味です。


「境界誓約の対価は」


セヴェリン様が、静かに言いました。


「誓約書として結ばれていない」


窓の外は、真っ暗でした。


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