第四話 村人は、条文を読めない
ドラン村へ向かったのは、翌々日の朝でした。
セヴェリン様は同行しませんでした。「領主が出れば、村は反対できなくなる」というのが理由です。合意を取るための場に、断れない相手を連れて行かない。理屈は分かります。
代わりに、御者と護衛が一人ずつ付きました。
「奥様、村長のガーロという男は口が悪うございます」
御者の老人が、道すがら教えてくれました。
「悪気はないのですが、まあ、譲りません」
「譲らないのは、悪いことではありません」
「そうでございますか」
「ええ。譲らない相手は、何を守りたいのかがはっきりしていますから。書きやすいです」
御者は少し笑いました。
◆
ドラン村の集会所は、板張りの粗末な小屋でした。
十人ほどが集まっています。中央に座った五十がらみの男が、腕を組んでこちらを見ていました。それがガーロ村長でした。
「辺境伯の奥方が、じきじきに何の用です」
「取水の誓約について、ご相談に参りました」
「相談。結局は、減らせという話でしょう」
「いいえ」
私は書類を出し、卓に広げました。
「減らしません。現在の乾期の上限を、そのまま保ちます」
村長の眉が動きました。
「じゃあ、何の用です」
「ドラン村とケール村の取水誓約が、矛盾しております。合計すると川の流量を超えます。乾期が深くなった年に、どちらかが必ず条文を破ることになります。破れば、代償が降ります」
集会所が静かになりました。
代償という言葉には、この国の誰もが反応します。
「……こっちが破るとは限らんでしょう」
「はい。ケール村が破るかもしれません。どちらになるかは、川が決めます」
「川が」
「上流が先に取れば、下流が足りません。下流が上限まで取ろうとすれば、上流の誓約が邪魔になります。どちらが悪いという話ではありません。両方守ることが、物理的にできないだけです」
村長は、しばらく黙っていました。
それから、卓の書類を顎で示しました。
「読めませんよ、俺たちは」
そう言った声には、少し刺がありました。
「前の書記官も、書類を持ってきて、ここに署名しろと言うだけだった。何が書いてあるのか説明しろと言ったら、説明しても分からんでしょうと言われた」
集会所の空気が、わずかに固くなりました。
私は書類を裏返しました。白い面を上にして、卓に置きます。
「では、書きません」
「は」
「口で申し上げます。九条ありますので、一つずつ。分からないところで止めてください」
村長が、目をしばたたきました。
◆
「第一条。この誓約は、ドラン村、ケール村、ガルドウィン辺境伯領の三者で結びます」
「三者」
「はい。今までは村と領主の二者でした。今度は、ケール村もこの紙に署名します」
「向こうも、同じ紙に」
「同じ紙です。ですから、向こうがいくら取るのかも、この紙に書かれます。ドラン村から見えるところに」
村長の腕が、少しほどけました。
「第二条。この誓約は、今までの二通より優先します。中身が食い違ったときは、こちらが勝ちます」
「今までの紙は、破るのですか」
「破りません。第三条にそう書きます。今までの誓約は残したままです」
「残したまま、こっちが勝つ」
「はい」
「……なぜ、残すんです」
いい質問でした。
「破棄すると、破棄したことを誰かが嘘だと言い出せるからです。残しておけば、両方の紙が並びます。並んでいれば、後から誰も『そんな約束はなかった』とは言えません」
村長は、しばらくこちらを見ていました。
「第四条から第七条までは、月ごとの取水量です。四月から九月まで、一月ずつ数字が入ります。この数字は、今のドラン村の上限と同じです。減っていません」
「同じ、と言われても」
「確かめてください」
私は書類を表に返し、古い誓約書の写しを隣に並べました。
「読めなくても、数字は同じ形をしています。この位置と、この位置。見比べてください」
村長は身を乗り出しました。太い指が、二枚の紙を交互に押さえます。
しばらくして、彼は顔を上げました。
「同じだ」
「はい」
「同じなら、なんで結び直す必要が」
「合計が変わるからです」
私は最後の一枚を出しました。
「第八条に、三者の合計が書かれます。この数字が、川の流量を超えません。ドラン村の取り分は変わらないのに、合計は超えなくなります」
「そんなことが」
「ケール村の乾期の上限が、今より下がります」
集会所が、また静かになりました。
村長が、ゆっくりと言いました。
「向こうは、飲むんですか」
「まだ話しておりません。ドラン村が先です」
「なぜ、こっちが先で」
「上流だからです」
私は言いました。
「上流が先に決まっていれば、下流は残った水を分けるしかありません。逆にすると、上流はいくらでも取れると言い出せます。順序を変えると、結果が変わります」
村長は、口を開いて、閉じました。
それから、少し掠れた声で聞きました。
「……奥方は、こっちの味方をしているんですか」
「いいえ」
私は首を振りました。
「私は、誰も代償を受けないように書いているだけです。結果として、今回はドラン村の数字が動きませんでした。次に何かを書くときは、逆になるかもしれません」
「正直なことで」
「誓約書の中では、嘘がつけませんので」
村長が、初めて短く笑いました。
◆
第九条まで説明し終えたとき、日は高くなっていました。
「一つ聞いていいですか」
村長が言いました。
「前の書記官は、なぜこれをやらなかったんです。二通が食い違っているのは、あの人も気づいていたはずだ」
「気づいておられたと思います。束の一番上に置いてありましたので」
「なら、なぜ」
「王都の管理院を通す必要があると考えられたのだと思います。手数料が、村の年貢の何倍かになります」
「そんな金は出ませんよ」
「ええ。ですから、領内で完結させます。領主の承認だけで成立しますので、費用はかかりません」
村長は、卓の上の紙をじっと見下ろしました。
「……あの人は、それを知らなかったんですか」
「知らなかったのか、面倒だったのかは、私には分かりません」
私はそう答えました。
分からないことは、分からないと言う。それだけのことです。
村長は大きく息を吐いて、腕を組み直しました。
「ケール村のやつらは、頑固ですよ」
「存じております」
「向こうにも、これを口で説明するんですか。九条ぜんぶ」
「はい」
「……何度も」
「必要な回数だけ」
村長は、少しのあいだ黙っていました。
それから、卓の脇に立っていた若い男を呼びました。
「おい、テオ。お前、ケールに従兄弟がいたろう」
「いますけど」
「奥方を連れて行け。門前払いされたら、お前が中に入って口をきけ」
「村長」
「上流が先に決まった、と言え。それだけ言えば、向こうも聞く耳を持つ」
私は頭を下げました。
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
村長は、ぶっきらぼうに言いました。
「うちの数字が減らんのなら、俺は文句を言わん。ただそれだけです」
◆
村を出るとき、御者の老人が言いました。
「よろしいのですか、奥様。あんなに時間をかけて」
「といいますと」
「口で説明するだけなら、四半刻で済んだでしょうに。三刻もかかっております」
私は馬車の窓から、遠ざかる集会所を見ました。
「読めない人に署名させた誓約書は、後で必ず揉めます」
「揉めますか」
「読んでいないのですから、当然です。何が書いてあるか知らないまま署名した人は、都合が悪くなったときに『聞いていない』と言います。そして、その主張は、しばしば正しいのです」
御者は、しばらく黙って手綱を握っていました。
「前の書記官どのは」
「はい」
「署名だけ取って、帰っておられました。半刻もかからずに」
「そうですか」
私は膝の上で、書類の束を揃えました。
半刻で取った署名は、半刻ぶんの重さしか持ちません。三刻かけた署名は、三刻ぶんの重さを持ちます。誓約術は、そこまでは測ってくれません。
測れないところを埋めるのが、読み手の仕事です。
◆
屋敷に戻ったのは、日が落ちてからでした。
執務室に灯りが点いています。扉を叩くと、セヴェリン様が顔を上げました。
「戻ったか」
「ドラン村の合意を取りました。ケール村へは明日、村の若い方が同行してくださいます」
「一日で取れたのか」
「一日かかりました」
私はそう言い直しました。彼は少し、間を置きました。
「――そうか」
それから、机の上の紙を一枚、こちらへ滑らせました。
私は受け取って、目を落としました。
管理院からの、書面の写し請求に対する回答でした。日付は今日。差出は王都です。
『ご請求の付属誓約書につきましては、当院に記録がございません』
記録がない。
写しが保管されていないのではなく、そもそも登録されていない、という意味です。
「境界誓約の対価は」
セヴェリン様が、静かに言いました。
「誓約書として結ばれていない」
窓の外は、真っ暗でした。




