第三話 境界杭は、二度打たれない
ガルドウィン家に来て四日目の朝、私は執務室に呼ばれました。
机の上に、木箱が一つ置かれています。蓋を開けると、誓約書の束でした。麻紐で括られた分が七つ。埃をかぶっているものもあります。
「昨年からの未処理分だ」
セヴェリン様が言いました。
「前任の書記官が半年前に辞めた。以来、緊急のものだけを私が捌いている。残りがこれだ」
「拝見してよろしいですか」
「そのために呼んだ」
私は一番上の束の紐を解きました。
小作契約が十二通、水利の取り決めが五通、商会との取引誓約が八通。分類の仕方が雑です。日付順でも案件別でもなく、届いた順に積んであるだけ。前任の方は、おそらく途中から追いつけなくなっていたのでしょう。
「奥様、お茶を」
家令のバルトが盆を置いていきました。私は礼を言って、一通目を読み始めました。
◆
二時間ほどで、三つの束を読み終えました。
「セヴェリン様」
「なんだ」
「ご報告が三点あります。よろしいでしょうか」
彼は書きものの手を止めて、こちらを向きました。
「聞こう」
「一点目。この十二通の小作契約は、すべて有効です。不備はありません。ただし、更新期日が来月に集中しています。十二件を同じ日に処理することになりますので、今から日をずらす合意を取っておくべきかと」
「なぜ集中している」
「三年前に一斉に結び直された形跡があります。前の代の処理でしょうか」
セヴェリン様の指が、わずかに止まりました。
「……続けてくれ」
「二点目。水利の五通のうち、二通が矛盾しています。上流のドラン村と下流のケール村で、乾期の取水量の上限が食い違っています。合計すると川の流量を超えます」
「両方とも有効か」
「有効です。だから問題です」
私は二通を並べて机に置きました。
「どちらかが破れば、破った側に代償が降ります。しかし両方守ることは物理的にできません。乾期が来た時点で、どちらかの村が必ず罰を受けます」
「今まで表面化していない」
「ここ二年、乾期が浅かったのだと思います。今年並みの雨量が続けば、来年あたりに出ます」
セヴェリン様は、しばらく二通を見下ろしていました。
「解けるか」
「解けません。誓約書は署名後に一文字も直せませんから」
「では」
「ですが、上に一枚重ねられます」
私は三通目の白紙を引き寄せました。
「両村と領主の三者で、新たに配分誓約を結びます。既存の二通は破棄せず、そのまま残す。新誓約に『前二通に優先する』と明記すれば、既存の条文は効力を失わないまま、事実上は上書きされます。誰も破らないことになりますので、代償は降りません」
「前例はあるのか」
「王都の誓約管理院では、上乗せ誓約と呼ばれています。ただ、手数料が高いので、領地ではあまり使われません」
「手数料は誰に入る」
「管理院に。ですが、領内完結の水利誓約であれば、領主の承認だけで成立します。管理院を通す必要はありません」
セヴェリン様が、こちらを見ました。
「通さない方法があるということか」
「はい。前任の方はおそらく、管理院を通すものだと考えて、費用の面で手を止められたのだと思います。束の一番上にこの二通が置いてありましたので」
彼は、机の上に指を組みました。
「三点目は」
私は、最後の一通を出しました。
◆
「境界誓約です。北の丘、ヴァレ地区の三十七区画」
「杭を打ち直した場所だな」
「はい。来る途中に見ました。杭が新しいので、覚えておりました」
私は書面を机に滑らせました。
「この誓約は、二年前に結ばれています。当事者は、ガルドウィン辺境伯領と、隣接するモーリス子爵領。境界を東へ四十歩移動させる内容です。四十歩ぶん、こちらが譲っています」
「知っている。父の代の話だ」
「では、この条文はご存じでしょうか」
私は第六条を指で示しました。
『本境界は、締結より二年を経過した日をもって確定し、以後いかなる異議も申し立てられない』
「二年を経過した日、というのは」
「先月です」
執務室が静かになりました。
「確定しました。もう争えません」
「……なるほど」
「ですが」
私は続けました。
「第六条は境界について確定させています。境界だけです。この誓約書のどこにも、譲渡の対価について書かれていません」
セヴェリン様が顔を上げました。
「対価」
「四十歩ぶんの土地を譲るのであれば、通常は代金か、それに代わる権利が定められます。この誓約書には、それがありません。無償譲渡と読むこともできますが、無償であればそう書くのが慣例です。書いていないというのは――」
「別紙がある」
「その可能性が高いと考えます。本誓約と同時に結ばれた、対価に関する付属誓約。それがどこかにあるはずです」
「見つかっていない」
「ここには、ありませんでした」
私は木箱を示しました。七つの束は、すべて読み終えています。
「モーリス子爵側が保管しているか、あるいは前の書記官が引き継ぎで持ち出したか。いずれにせよ、こちらに写しがないというのは不自然です。誓約書は必ず両者が同文を持ちます」
セヴェリン様は、長いあいだ黙っていました。
窓の外で、風が鳴っています。
「父は、その半年後に死んだ」
彼が言いました。
「境界を譲った理由を、誰にも話さなかった。私が家を継いだとき、書類はすでに散らかっていた」
私は口を挟みませんでした。話す段階にないと仰ったことに、こちらから触れるつもりはありません。
「探せるか」
「探せます。写しの請求は、当事者であれば管理院に対して行えます。ただし」
「ただし」
「請求を出した時点で、モーリス子爵に通知が行きます。こちらが探していることが、向こうに伝わります」
「伝わると、どうなる」
「分かりません。何もないかもしれません。ただ、二年間見つからなかった書面が、探し始めた途端に出てくることは、あまりありません」
セヴェリン様は、少しだけ目を細めました。
「君は、慎重だな」
「臆病なだけです」
「同じことだ」
彼は立ち上がり、窓のほうへ歩きました。手袋をした左手が、一度だけ握られて、開きました。
「水利の上乗せ誓約を先に進めてくれ。両村への説明も任せる」
「私が、でしょうか」
「他に読める者がいない」
振り返らずに、彼は言いました。
「境界の件は、こちらで調べる。君はまだ、この土地に来て四日だ」
◆
その日の夕方、私は水利誓約の草案を書き上げました。
三者誓約、全九条。乾期の取水量を月別に定め、上流と下流で合計が流量を超えない配分にします。既存二通への優先を第二条で明記し、既存二通は破棄しないと第三条で確認する。破棄しないと書いておくことが大事です。誰も嘘をつかないで済むように書く。それが読み手の仕事です。
書き終えて、ペンを置いたときでした。
家令のバルトが、扉のところに立っていました。
「奥様。差し出がましいことを申し上げてもよろしいですか」
「はい」
「旦那様が、書類の話を最後まで人にお聞きになったのは、ずいぶん久しぶりでございます」
私は少し驚いて、顔を上げました。
「前任の書記官の方には」
「三度目からは、お聞きになりませんでした」
バルトは静かに言いました。
「あの方は、分からないことを分からないと仰らなかったので」
盆を下げて、家令は出ていきました。
私は草案をもう一度読み返しました。
分からないことは、分からないと書く。書けないことは、書かない。それは特別なことではありません。誓約書の中では嘘がつけないのだから、当たり前のことです。
ただ――当たり前のことを、当たり前だと言ってもらえたのは、初めてでした。
窓の外は、もう暗くなっていました。
北の丘の方角に、新しい杭の列があるはずです。
境界杭は、二度打たれません。打ち直したということは、誰かがそれを必要としたということです。そして、誰かが対価を受け取ったということでもあります。
その対価が、どこへ行ったのか。
書かれていないことを詮索するのは、読み手の仕事ではありません。
けれど、書かれるべきなのに書かれていないことは――話が別です。




