第二話 辺境伯の屋敷には、嘘が住めない
ガルドウィン辺境伯領へ入ったのは、出立から六日目の夕刻でした。
山を二つ越えた先の、痩せた土地です。麦の丈が短く、畑の区画が不揃いで、境界の杭だけが新しい。土地の境は誓約書で定められますから、杭が新しいということは、この一、二年で境界の誓約が結び直されたということになります。
理由は分かりません。ただ、覚えておきました。
屋敷は、噂よりずっと静かでした。黒い石を積んだ古い建物で、壁に人の名が浮かんでいるということもありません。手入れは行き届いていて、玄関前の敷石は隅まで掃かれていました。人手をかけている屋敷です。血の契約者の館、という響きからは遠い。
出迎えたのは、白髪の家令が一人だけでした。
「アシュフィールド伯爵令嬢でいらっしゃいますね。バルトと申します」
「ヴィオラです。お世話になります」
「旦那様は執務室におられます。すぐにお通しいたしますが、その前に――」
家令はそこで、少し言葉を選ぶ顔をしました。
「屋敷の者にお伝えしていることが、一つございます。この屋敷では、当主に対して虚偽を申し上げませんように」
「それは、どういう」
「そのままの意味でございます」
家令は淡々と続けました。
「旦那様は、嘘をお嫌いになります。咎めることはなさいません。ただ、二度と信用なさらないだけです」
咎めない。ただ信用しない。
それは、この国で最も重い罰の一つです。誓約書に署名させてもらえない人間は、契約社会の外側へ落ちますから。
「承知いたしました」
私はそう答えました。守れる約束です。私は嘘を言わない習慣を持っています。嘘は条文と同じで、一度書けば必ずどこかで矛盾を生む。読む側にいた人間は、そのことをよく知っています。
◆
執務室の扉が開きました。
窓を背にして立っていた人が、こちらへ顔を向けます。
背の高い方でした。二十八と聞いていましたが、目元にもう少し年上の疲れがあります。黒に近い濃紺の上着、飾りのない襟元。左手に手袋をはめたままで、右手は素手でした。
「セヴェリン・ガルドウィンだ」
低い声でした。
「ヴィオラ・アシュフィールドと申します」
「座ってくれ」
私は勧められた椅子に腰を下ろしました。彼は自分は座らず、机の端に婚姻誓約書の正本を置きました。私が署名した、あの一通です。
「先に確認したいことがある」
「はい」
「この署名欄には、当初『アシュフィールド伯爵家 令嬢』としか印字されていなかった。名前は後から書き入れられている。誰が書いた」
心臓が、一度だけ強く鳴りました。
見ています。この方は、条文だけでなく、書式まで読む人です。
「私です」
「伯爵の許可は」
「ありませんでした。父は空欄のままでよいと申しました」
「なぜ書いた」
私は少し考えて、正直に答えることにしました。ここで飾れば、家令の言葉に反します。
「個人名のない婚姻誓約は、後から被署名者を争えるからです。三年のあいだに私が何かを成せば実家はそれを妹のものだと主張できますし、私が失敗すれば私一人の責任にできます。どちらにも使える空欄でした。ですから、埋めました」
セヴェリン様は、しばらく黙っていました。
それから、少しだけ椅子を引いて、ようやく腰を下ろしました。
「――なるほど」
「差し出がましいことをいたしました」
「いや」
彼は誓約書を指で軽く叩きました。
「私はその空欄に気づいていた。気づいたうえで、指摘しなかった。指摘すれば伯爵は別の令嬢を寄越すと言い出しただろうからだ。空欄のまま結ばせて、後で埋めさせるつもりでいた」
「……では、私は」
「先に埋めた。それだけだ」
淡々とした声でした。責める色も、褒める色もありません。ただ事実を確認しているだけの話し方です。
私はこの十年、書類の不備を指摘するたびに、父から「余計なことを」と言われてきました。正しさは、この家では常に余計なものでした。
だからでしょうか。ただ「それだけだ」と言われたことが、うまく飲み込めませんでした。
「一つ、聞いておきたい」
セヴェリン様が言いました。
「君はこの婚姻を、どう理解している」
「三年で終わるものと理解しております」
「第九条か」
「はい。三年後、双方の合意なき場合、自動的に解消される。私はそれまで、契約どおりに務めます」
「愛情の話はしないのか」
「誓約書に書かれておりません」
言ってから、失言だったかと思いました。
けれどセヴェリン様は、初めてわずかに口の端を動かしました。笑ったのかどうかは、分かりません。
「結構だ」
彼は言いました。
「私も同じ理解でいる。三年後、君は自由になる。それまでのあいだ、この屋敷にいる不利益を君に負わせるつもりはない」
「不利益、と申しますと」
「私の噂は聞いているだろう」
「聞いておりますが、出典がありません」
また、少し間がありました。
「……出典」
「血の契約者という呼び名の初出も、屋敷の壁に名が浮かぶという話の出所も、誰も示せません。誓約書であれば差し戻す種類の情報です」
セヴェリン様は左手を見下ろしました。手袋をした手です。それから、こちらへ視線を戻しました。
「噂の半分は嘘だ。もう半分は、まだ君に話す段階にない」
「承知いたしました」
「聞かないのか」
「話す段階にないと仰いましたので」
私は膝の上で手を重ねました。
「条文に書かれていないことを詮索するのは、読み手の仕事ではありません。書かれていることを正確に守るのが仕事です」
セヴェリン様が、こちらをじっと見ました。
先ほどまでの、書式を検める目とは少し違う見方でした。
◆
その夜、与えられた部屋で荷を解いていると、扉が叩かれました。
家令のバルトが、盆に一通の書面を載せて立っていました。
「旦那様より、奥様へ」
「……奥様」
「本日より、そうお呼びいたします」
私は書面を受け取りました。
婚姻誓約書の付属誓約、という表題が付いていました。本体の誓約書に紐づけて結ぶ、追加の契約です。全三条。短いものでした。
第一条。ヴィオラ・ガルドウィンが当領において誓約書の検分に従事した場合、一件につき定額の報酬を支払う。
第二条。前条の報酬は、婚姻の解消によって消滅しない。
第三条。本誓約に基づく請求権は、アシュフィールド伯爵家に帰属しない。
読み終えて、私はしばらく動けませんでした。
婚姻誓約書の第七条には、こうあります。『花嫁は、婚姻の期間中、実家に対する一切の債権を主張しない』。父が私の十年分の手数料を潰すために入れた条文です。
この付属誓約は、そこには触れていません。触れずに、これから先の分だけを、実家の手の届かない場所に置いています。
三年後に婚姻が終わっても、報酬は残る。
私が働いた分は、私のものになる。
「……あの、バルトさん」
「はい」
「これは、どういう」
「旦那様は、働いた者に払うお方です」
家令は当たり前のことのように言いました。
「それだけでございます」
扉が閉まりました。
私は書面を机に置いて、明かりの下でもう一度読み返しました。三度読んで、不備がないことを確かめました。抜け道もありません。私に不利な条項も、一つもありません。
こんなに読むところのない誓約書は、初めてでした。
――働いた分は、あなたのものです。
紙にそう書かれているだけのことです。誰かがそう言ってくれたわけではありません。
それなのに、指先がひどく熱いと思ったら、術式署名を落とすより先に、掌に白い紋が浮かんでいました。
虚偽のない条文に触れたときの、熱でした。




