第一話 身代わりの署名
「ヴィオラ。お前が行け」
父がそう言ったとき、私は書斎で三十七枚目の誓約書を検めているところでした。
羊皮紙の右下、術式署名の滲み方が不自然です。インクの乾きが上の条文より古い。先に署名を取ってから、あとで条文を書き足したものでしょう。順序が逆になった誓約書は、術としては成立していても、争われれば必ず崩れます。差し戻すべき一枚。
その判断を頭の隅に置いたまま、私は顔を上げました。
「どちらへ、でしょうか」
「ガルドウィン辺境伯領だ」
羽根ペンを持つ指が、わずかに止まりました。
ガルドウィン辺境伯セヴェリン。血の契約者と呼ばれている方です。代償の重い誓約ばかりを引き受け、そのたびに誰かが死ぬ。屋敷の壁に人の名が浮かぶ。噂は数え切れないほどありますが、そのどれにも出典がありません。私はそういう種類の話を信じない習慣を持っています。裏の取れない情報は、条文には書けませんから。
「リナリーの縁談だったはずです」
「あの子は泣いて嫌がっている」
母が扉のところから言いました。妹の名を口にするとき、母の声はいつも柔らかくなります。
「あなたなら平気でしょう。昔から、そういうことを気にしない子だったもの」
気にしていないわけではありません。ただ、気にしたところで書類の枚数が減るわけではないと知っているだけです。私は十二の年から、この家の誓約書をすべて処理してきました。小作契約、借入、婚姻、商会との取引。父が署名し、私が読む。読んだのが私だという記録は、どこにも残っていません。
「婚姻誓約書は」
「そこだ」
父が机の端に一通を置きました。すでに封は切られています。
私は手を伸ばし、それを引き寄せました。
◆
誓約術は、この国の骨組みです。
術式署名を入れた誓約書は、署名者の魔力と結びつきます。条文を破れば代償が降りる。代償は契約の重さに応じて変わり、軽ければ数日の高熱、重ければ命に届きます。だからこの国では、口約束というものが存在しません。約束はすべて紙の上にあり、紙の上にしかありません。
そして誓約書には、もう一つ性質があります。
虚偽を書いた条文は、署名の瞬間に熱を持つのです。だから誰も、誓約書の中では嘘をつけない。つけるのは、書かないという嘘だけ。
婚姻誓約書は全十二条ありました。
第一条から第五条までは定型です。婚姻の成立、居住地、家名の扱い、双方の家への義務。第六条に持参金の額。父が用意した金額は、伯爵家の長女に対するものとしては侮辱的なほど低いものでした。
第七条を読んで、私は指を止めました。
『花嫁は、婚姻の期間中、実家に対する一切の債権を主張しない』
なるほど、と思いました。
私はこの十年間、この家の誓約書を無報酬で処理してきました。本来であれば、誓約術の読み手に支払われるべき手数料が発生しています。書面に残していなくても、慣習法上は請求できる。父はそれを知っていて、嫁ぐ前に潰しておこうとしたのです。
第八条は、離縁時の持参金の返還について。返還先は私ではなく、アシュフィールド伯爵家。
そして、第九条。
『婚姻より三年を経た日、双方の合意なき場合、本婚姻は自動的に解消されるものとする』
三年。
私は父の顔を見ました。父は私を見ていませんでした。
「三年もあれば十分だろう」と父は言いました。「向こうも体裁は必要だ。三年経てば、お前は捨てられて帰ってくる。そうしたら、そのときはリナリーの嫁ぎ先で使ってやる」
帰ってくる、と父は言いました。
そのつもりで、この条文は書かれているのでしょう。三年の期限。低い持参金。返還先は実家。私という人間は、貸し出されるだけで、返却される前提になっている。
私は最後まで読みました。第十条、第十一条、第十二条。不備はありません。悪意はありますが、不備はない。悪意は無効事由になりませんから、これは有効な誓約書です。
それから、署名欄を見ました。
『アシュフィールド伯爵家 令嬢』
そう印字されていました。名前が入っていません。
「父上」
「なんだ」
「署名欄が定型のままです。個人名を入れないと、被署名者の特定ができません」
「かまわん。どうせ同じことだ」
同じではありません。
個人名のない婚姻誓約は、後から「どの令嬢を指していたか」を争える余地を残します。三年後、私が何かを成していたとして、この家はそれをリナリーのものだと主張できる。逆に私が失敗すれば、私一人の責任にできる。父がそこまで考えて空欄にしたのか、単に面倒だっただけなのかは分かりません。
けれど、どちらでも結果は同じです。
私は羽根ペンを取り、空欄に書き入れました。
ヴィオラ・アシュフィールド
そして、その下に術式署名を落としました。
掌が熱くなり、白い紋が浮かびます。誓約が結ばれた印です。熱はすぐに引きました。この誓約書の中に、虚偽はないということ。
「余計なことを」
父の声が背中に落ちました。
「もう書き換えられません」
私は静かに答えました。誓約書は、一度署名が入れば一文字も直せない。それがこの術の唯一の美点だと、私はずっと思っています。
◆
出立は三日後と決まりました。
荷物は多くありません。着替えと、使い込んだ誓約術の写本が二冊。父が持たせてくれたものは何もなく、母は最後まで書斎に来ませんでした。妹のリナリーだけが玄関で待っていて、「お姉さま、ごめんなさいね」と言いながら、私の顔を見ていませんでした。
馬車に乗り込んでから、私はもう一度、婚姻誓約書の写しを開きました。
三年。契約どおりに務めれば、私は自由になります。愛さなくていい。期待しなくていい。書かれたことだけを、きちんと守ればいい。それは私が十年間やってきたことと、何ひとつ変わりません。
指が、第九条の上で止まりました。
『婚姻より三年を経た日、双方の合意なき場合、本婚姻は自動的に解消されるものとする』
解消される。
——解消されたあと、私がどこへ行くのかは、書かれていません。
第八条は持参金の返還先を定めています。第六条は嫁ぐ日を定めています。けれど、この誓約書のどこにも、離縁後に私がアシュフィールド伯爵家へ戻るという条文がないのです。
父は「帰ってくる」と言いました。
けれど契約書は、そんなことを一言も約束していませんでした。
馬車が門を出ます。振り返らずに、私は写しを膝の上で閉じました。
三年後、この結婚は終わります。
そのとき私に帰る場所がないのだとしたら――帰らなくていいということでもあるのだと、そのときの私は、まだ半分も分かっていませんでした。




