第四十八話 アデル・ガルドウィン
無効確認の通知が届いたのは、七月の初めでした。
『申立てのとおり、私的誓約第二号第四条は、細則第四十一条により無効と確認する。当該条項に係る術式登録を抹消した』
一枚きりの、短い書面です。
私はそれを持って、執務室へ急ぎました。
「セヴェリン様」
彼は書きものの手を止め、書面を受け取りました。読み終えて、しばらく黙っていました。
それから、手袋を外しました。
左手の甲に、紋がありません。
「――消えている」
「消えております」
私は言いました。
彼は自分の手を裏返し、手首まで確かめました。何もありません。二年間そこにあった黒い線が、跡形もなく消えていました。
「これで、終わりか」
「第四条については、終わりでございます」
私は言いました。
「乙の請求権は、第三条により生きております。ただ、請求先は当家であって、セヴェリン様個人ではございません」
「額は」
「書かれておりません」
私は言いました。
「ですが、請求されるとしても、二年前からできたことでございます。二年、されておりません」
◆
その七日後、屋敷に客がありました。
バルトが執務室に入ってきたとき、私はすぐに分かりました。家令の顔が、これまでと違っていたからです。
「旦那様。お客様でございます」
「誰だ」
「――アデル様でございます」
セヴェリン様が、立ち上がりました。
◆
応接間に、その人はいました。
背の高い男でした。四十をいくつか過ぎた頃でしょう。痩せていて、上着は古いが手入れが行き届いています。
顔立ちが、セヴェリン様に似ていました。目の形と、口元の線が。
「アデル・ガルドウィンです」
彼は名乗りました。
「セヴェリンです」
「――大きくなられた」
アデル様は、そう言って、少し目を伏せました。
「四つの年に、一度お会いしております」
「覚えていません」
「覚えておられぬのが、当然です」
◆
椅子に座ると、彼は私のほうを見ました。
「奥方でいらっしゃいますか」
「ヴィオラと申します」
「誓約書をお読みになると伺いました」
「――どちらで」
「王都で」
アデル様は言いました。
「ヴェルナーから」
私は、背筋が伸びるのを感じました。
「お会いになりましたか」
「先月に」
彼は言いました。
「あの男が、私を呼びました。二十年ぶりでした」
◆
「なぜ、呼ばれたのですか」
私は尋ねました。
アデル様は、少し間を置きました。
「私の請求権について、話がしたいと」
彼は言いました。
「あの男は、こう言いました。ガルドウィン家に読める者が来た。その者が、遠からずお前に行き着く。行き着かれる前に、自分で行け、と」
私は、膝の上で手を組みました。
「ヴェルナーさんは、私にはあなたのことを仰いませんでした」
「言えぬでしょう」
アデル様は言いました。
「あの男は、二十年、誰の秘密も漏らしておりません」
「ですが、あなたには話された」
「私は、依頼主ではありませんので」
彼は言いました。
「守秘の対象ではないのです」
私は、少し感じ入りました。
嘘をつかず、黙り、そして自分が動く。あの方のやり方でした。
◆
「叔父上」
セヴェリン様が言いました。
「二年前の冬、この屋敷に来ておられましたね」
「おりました」
アデル様は、あっさり認めました。
「三か月、週に一度」
「何を探しておられたのですか」
「土地の誓約書です」
彼は言いました。
「二十年前から十六年前まで、私が書いたもの。それと、その後の四年分」
「見つかりましたか」
「見つかりませんでした」
アデル様は言いました。
「後で知りました。ヴェルナーが持っていたと」
◆
「なぜ、探しておられたのですか」
私は尋ねました。
彼は、しばらく黙っていました。
「兄が――先代が、死ぬ前に、私に文を寄越しました」
アデル様は言いました。
「十六年ぶりでした」
「なんと」
「四十四通を探せ、と」
私は、息を詰めました。
「それだけです」
彼は言いました。
「理由も、何をせよとも書いてありません。ただ、四十四通を探せ、と」
「二年前の、いつでございますか」
「九月です」
アデル様は言いました。
「兄が倒れる、数日前でした」
◆
私は、日付を頭の中で並べ直しました。
九月の初め、ヴェルナーが四十四通を先代様に提出。三日ご覧になる。その頃、アデル様に文を出す。九月半ば、死去。
「先代様は、四十四通をご覧になったうえで、あなたに文を出しておられます」
私は言いました。
「はい」
「そして、何をすべきかは書かれなかった」
「書かれませんでした」
アデル様は言いました。
「兄は、そういう人でした。読めぬくせに、説明もせぬ」
彼は、少し笑いました。
笑って、それから、表情を消しました。
「私が来たとき、兄はもう死んでおりました」
◆
「私的誓約について、伺ってもよろしいですか」
私は言いました。
「第二号の乙は、あなたでございますね」
「私です」
アデル様は認めました。
「二年前の八月、兄と結びました」
「第一条は、家督相続を妨げない。第二条は、兄上の生存中は請求しない」
私は言いました。
「第三条で、死後に制限が解かれます」
「そのとおりです」
「なぜ、そのような誓約を」
アデル様は、しばらく黙っていました。
「兄が、持ちかけました」
彼は言いました。
「戦の最中です。自分に何かあれば、家督で揉めると考えたのでしょう」
「揉めますか」
「揉めます」
彼は言いました。
「私は十八年前に請求権を放棄しましたが、相続権は残っておりました。兄が死に、セヴェリンが戦死すれば、私が継ぐことになります」
◆
「第四条は」
私は言いました。
「セヴェリン様に、請求に応じさせるという条文でございます」
アデル様の顔が、動きました。
「第四条」
「ご存じございませんでしたか」
「――知りません」
彼は言いました。
「私が署名したのは、三条までのものです」
私は、身を乗り出しました。
「三条まで、と仰いますと」
「兄から送られてきた書面は、第三条で終わっておりました」
アデル様は言いました。
「私は王都で署名し、送り返しました。登録は兄がすると」
「登録されたのは、五条のものでございます」
私は言いました。
「第四条と第五条が、追加されております」
彼は、しばらく動きませんでした。
◆
「――署名の後に、書き足されたと」
「できません」
私は言いました。
「誓約書は、署名後に一文字も直せません」
「では」
「別の紙に書き直して、あなたの署名だけを写したか」
私は言いました。
「あるいは、初めから五条のものと三条のものを二通用意し、あなたには三条のものを送り、登録は五条のもので行ったか」
「そんなことが」
「できます」
私は言いました。
「登録は、当事者の一方が行えます。相手方の署名があれば、内容の照合はされません」
アデル様の指が、膝の上で強く握られました。
「兄が、そんなことを」
「先代様とは限りません」
私は言いました。
「書いた者がおります」
◆
私は、条文の形を思い出しました。
第四条。『甲は、乙が前条により請求を行う場合、丙をして、これに応じせしめるものとする』
甲は、乙が、丙をして。
読点が、二か所。
「――ディンゲン様でございます」
私は言いました。
「あの句読の癖は、境界誓約と同じでございます」
セヴェリン様が、こちらを見ました。
「あの男が、私的誓約も書いたのか」
「書式が一致いたします」
私は言いました。
「そして、第四条は無効な条文でございます。読み手であれば、無効と分かって書いております」
「無効と知りながら、なぜ入れる」
「紋を出すためでございます」
私は言いました。
「法としては効きません。ですが、術としては作動いたします。セヴェリン様の左手に、二年間、紋が残り続けました」
私は、そこまで言って、一つのことに気づきました。
「――そして、期限は来年の九月二日」
私は言いました。
「復元誓約の草案に署名すれば、精算義務が発生いたします。紋を抱えた状態で、上限のない請求を負う」
私は顔を上げました。
「追い込むための条文でございます」




