最終話 離縁の日まで、契約どおりに
翌年の夏は、静かに過ぎました。
ディンゲン様が管理院に召喚されたのは、九月の初めでした。第四条の書き足しについて、書面照合の審査が入ったのです。彼は否定しませんでした。処分は登録の一部抹消と、譴責。読み手の資格は残りました。
「軽いのではないか」
セヴェリン様は不満そうでした。
「無効な条文を書くこと自体は、罪ではございません」
私は言いました。
「書いた条文が無効になっただけでございます。ディンゲン様は、罰せられる線を知って書いておられました」
「腹の立つ話だ」
「腹は立ちます」
私は言いました。
「ただ、あの方は最後に、第六条は消せると教えてくださいました。そこを、私は忘れないつもりでおります」
◆
北の丘は、戻りませんでした。
代わりに、モーリス子爵が別の申し出をしてきました。復元誓約の第六条を削り、境界を四十歩戻す。その代わり、放牧権の供託を子爵家が引き継ぐ、というものです。
私は、断りました。
「なぜだ」
「供託は、当家の債務の履行でございます」
私は言いました。
「他家に引き継がせれば、そちらに恩ができます。恩は、条文になりません」
丘は、子爵家のものです。ただ、羊は毎年上がっています。ドラン村の羊が、他家の土地で草を食む。おかしな形ですが、誰も損をしていません。
テオは、今年から村の書記を務めています。誓約書はまだ読めませんが、条を数えて、分からない箇所に印をつけられるようになりました。
「奥様。この八条目が、変です」
そう言って持ってくる紙の、七割は本当に変でした。
◆
実家が傾いたのは、その年の秋でした。
きっかけは、小さなことです。更新期の小作契約を、父が読み手に通さずに結びました。費用を惜しんだのです。
その一件に不備があり、相手方が管理院に申し立てました。申し立てを受けて、過去の届出が一斉に点検されることになりました。
百通は、残りました。リナリーが管理院に答えた形式が、正しかったからです。
けれど、点検の過程で、父がこの十年に結んだ誓約のうち十七通に、不利な条文が見つかりました。いずれも、私が読んだものではありません。私が書斎を離れてからの分でした。
損失は、大きなものでした。
父は、リナリーに読み手を解雇するよう命じました。
リナリーは、断りました。
『お姉さま
ヨセフさんは残しました。持参金から出しているので、お父さまには止められません。
お父さまは、書斎に来なくなりました。
わたしが読むようになって、十年分を全部知りました。
お姉さまが何をしていたか、分かりました。
まだ、ごめんなさいとは書きません。書ける日が来たら、書きます。
リナリー』
私は、その書状を保管しました。
ざまぁだとは、思いませんでした。父は誰にも罰せられていません。ただ、読む者がいなくなった家が、勝手に軋んでいるだけです。
◆
ヴェルナーが亡くなったのは、二年目の冬でした。
王都の宿からの報せです。遺品の書棚に、三冊の控えが残されていました。当家に関する分だけ、私宛に送るよう手配されていたそうです。
私は、それを帳簿の末尾に綴じました。
そして、一行書き足しました。
『十二年間、当家の誓約書を守っていたのは、ヴェルナーという読み手であった。管理院への登録はない』
アデル様は、請求をなさいませんでした。
代わりに、年に二度、屋敷に来られるようになりました。書斎で誓約書を読み、帰っていかれます。報酬は、日雇いと同じ額です。
「もっと払う」
セヴェリン様が何度も言いましたが、受け取られませんでした。
「私は、この家に十年ただ働きをさせられた男です」
アデル様は言いました。
「同じことを、こちらからするのです。帳尻が合うまでは、上げていただかなくて結構」
◆
そして、三年目の夏が来ました。
八月の終わり、私は婚姻誓約書の正本を執務室に出しました。
第九条。三年を経た日、双方の合意なき場合、本婚姻は自動的に解消される。
期日は、九月の十二日です。
「ヴィオラ」
セヴェリン様が言いました。
「はい」
「話がある」
「承っております」
私は言いました。
「合意の有無について、でございますね」
◆
彼は、しばらく黙っていました。
「君は、どうしたい」
「先に、条件を整理させてください」
私は言いました。
「婚姻が解消された場合、私はガルドウィン家を出ます。アシュフィールド家には戻りません。どこの家にも属さない女になります」
「そうだな」
「その場合、管理令施行細則第百二十三条の要件を満たします」
私は言いました。
「いずれの家にも属さぬ者。読み手の登録試験を、受けられます」
セヴェリン様の顔から、表情が消えました。
「――受けるのか」
「申請は、済ませております」
私は言いました。
「メリダ殿に相談いたしました。条文に女子を排除する明文はございません。補遺の解釈は慣行にすぎないと、あの方も仰いました」
「認められるか」
「争いになると思います」
私は言いました。
「ただ、争えます。書かれていないことは、禁じられておりませんので」
◆
セヴェリン様は、窓のほうへ歩きました。
しばらく、背中を向けたままでした。
「登録すれば、君は自分の名で読めるな」
「読めます」
「十年、記録に残らなかった分が」
「残るようになります」
私は言いました。
「これからの分だけでございますが」
彼は、振り返りました。
「では、婚姻は解消するのか」
「そこが、条文の問題でございます」
私は言いました。
◆
私は、第九条をもう一度読みました。
「双方の合意なき場合、解消されます。合意があれば、継続いたします」
私は言いました。
「ただ、継続すればガルドウィン家に属したままでございます。属している限り、登録できません」
「では、両立しないな」
「いたしません」
私は言いました。
「ですから、一度解消いたします」
セヴェリン様が、何か言おうとしました。
私は続けました。
「解消し、登録試験を受け、登録が済んだのちに――改めて婚姻を結び直します」
彼が、動きを止めました。
「登録は、一度済めば家に属しても失効いたしません」
私は言いました。
「細則第百二十八条。登録後の身分変動は、登録の効力に影響しない。要件は、登録の時点でのみ問われます」
「――抜け道か」
「条文どおりでございます」
私は言いました。
「抜け道ではございません。順序でございます」
◆
セヴェリン様は、長いあいだ黙っていました。
それから、机の引き出しを開けました。
一枚の紙を取り出し、卓に置きます。
婚姻誓約書の草案でした。
「いつから」
「去年の冬からだ」
彼は言いました。
「何度も書き直した。まだ第三条までしかない」
私は、読みました。
第一条。婚姻の成立。
第二条。ヴィオラ・ガルドウィンが誓約術の読み手として従事することを、当家は妨げない。
第三条。本婚姻に期限を定めない。
「――第三条が」
私は言いました。
「期限を定めない誓約は、細則により三年で履行期が到来いたします」
セヴェリン様の顔が、強張りました。
「そうなのか」
「婚姻には適用されません」
私は言いました。
「第五編は別でございます」
「――紛らわしいことを言うな」
「申し訳ございません」
私は言いました。
「つい、条文の話になりますので」
◆
九月の十二日、婚姻は解消されました。
その日、私はガルドウィン家の門を出ました。荷物は、着替えと誓約術の写本が二冊。三年前に持ってきたものと、同じです。
門の外で、馬車が待っていました。
「王都までは六日だ」
セヴェリン様が言いました。
「はい」
「試験は」
「十月から十二月でございます」
私は言いました。
「三次まで進めば、年内に結果が出ます」
「進むだろう」
「分かりません」
私は言いました。
「受験を認めるかどうかから、争いになりますので」
彼は、少し笑いました。
「争えるんだろう」
「争えます」
私は言いました。
◆
馬車に乗る前に、私は一度だけ振り返りました。
三年前、この門をくぐったとき、私は三年後の行き先を考えていませんでした。婚姻誓約書には、離縁後にどこへ行くとも書かれていなかった。それを、父の詰めの甘さだと思っていました。
そうではありませんでした。
書かれていなかったのは、決まっていなかったからです。
決まっていないことは、自分で決められます。
「セヴェリン様」
「なんだ」
「第四条を、書き足していただけますか」
「なんと書く」
私は、少し考えました。
「――相手方が誓約書を読み上げたとき、最後まで聞くこと」
「それだけか」
「それだけでございます」
私は言いました。
「読める者がいない家では、条文が人の一生を決めます。読める者が二人いる家では、そうはなりません」
セヴェリン様は、しばらく私を見ていました。
「二人か」
「二人でございます」
私は言いました。
「あなたにも、教えます。帰りましたら」
◆
馬車が動き出しました。
膝の上に、私は一枚の紙を置いています。
三条までの、婚姻誓約書の草案です。署名欄は、まだ空白でした。
空欄は、誰かに埋めさせるためのものではありません。
自分で埋めるためのものです。
三年前、私はそれを知らずに名前を書きました。
今度は、知って書きます。
〈了〉




