第四十六話 無効の確認
閲覧室を出て、私はメリダ殿に申し出ました。
「第四条について、無効の確認を申し立てたく存じます」
「根拠条文は」
「細則第四十一条。第三者に義務を負わせる条項は、その第三者の同意なくして効力を生じない」
私は言いました。
「セヴェリン様は、この誓約に同意しておられません。当事者でもございません」
メリダ殿は頷きました。
「申立書をお書きください。審査は、二週間ほどかかります」
「二週間」
「確認は、書面審査のみでございます」
彼女は言いました。
「条文の形式を見るだけでございますので、争いにはなりません」
◆
申立書は、その日のうちに提出しました。
四条だけの短いものです。誓約の特定、対象者の氏名、根拠条文、そして求める処分。
書きながら、私は少し手が震えているのに気づきました。
「どうした」
セヴェリン様が言いました。
「――安堵しているのだと思います」
私は言いました。
「二週間で、終わります」
「早いな」
「早うございます」
私は言いました。
「無効の確認は、争いのない手続きでございます。条文の形が決まっておりますので、審査する側も迷いません」
「では、なぜ二年かかった」
私は、ペンを置きました。
「知らなかったからでございます」
私は言いました。
「知っていれば、二週間でございました。知らなければ、三年で代償が降ります」
セヴェリン様は、しばらく黙っていました。
「――そういうものか」
「そういうものでございます」
◆
王都を発つ前に、私はもう一度、職人街の宿を訪ねました。
ヴェルナーは、前より起きているのが辛そうでした。それでも、私を見て身を起こしました。
「奥様。まだ王都に」
「本日、発ちます」
私は言いました。
「ご挨拶に伺いました」
「――ご丁寧に」
私は、椅子に座りました。
「一つ、ご報告がございます」
「なんでございましょう」
「北の丘の放牧権について、供託が受理されました」
私は言いました。
「それと、紋の件が、片付きそうでございます」
ヴェルナーの目が、こちらを向きました。
「紋」
「辺境伯の左手に、履行待ちの紋がございました」
私は言いました。
「原因が判明いたしました。二年前の私的誓約の第四条でございます。無効の確認を申し立てました」
◆
ヴェルナーは、しばらく動きませんでした。
やがて、彼は静かに言いました。
「……そうでございますか」
「ご存じでしたか」
私は尋ねました。
答えを、数えました。
一拍、二拍。
「――存じませんでした」
遅くありません。速くもありません。
「紋があることは」
「存じませんでした」
彼は言いました。
「辺境伯は、いつも手袋をしておられましたので」
「私的誓約のことは」
ヴェルナーは、視線を落としました。
「登録があることは、存じておりました」
「中身は」
「存じません」
彼は言いました。
「私的誓約でございますので」
◆
私は、少し待ちました。
彼は、それ以上何も言いませんでした。
「ヴェルナーさん」
「はい」
「乙は、アデル様でございますね」
部屋が、静かになりました。
窓の外で、槌の音がしています。職人街の午後の音です。
ヴェルナーは、長いあいだ黙っていました。
「――奥様」
「はい」
「私は、二十年、どの家の誓約書についても、中身を漏らしたことがございません」
「存じております」
私は言いました。
「ですから、お答えいただかなくて結構でございます」
私は立ち上がりました。
「ただ、一つだけ」
「はい」
「アデル様は、二年前の秋から冬、当家の書斎に通っておられました」
私は言いました。
「請求ができる立場になられてから、三か月間、書類を読んでおられます。請求はなさっておりません」
「――さようでございますか」
「なぜだと思われますか」
ヴェルナーは、答えませんでした。
◆
私は、扉に手をかけました。
「ヴェルナーさん」
「はい」
「あなたの控えを、写させていただきました」
私は言いました。
「十二年分でございます。当家の帳簿に、記録として綴じます」
「恐れ入ります」
「そこに、一行書き足します」
私は言いました。
「十二年間、当家の誓約書を守っていたのは、ヴェルナーという読み手であった、と」
彼は、こちらを見ました。
「――記録には、残りません」
「残ります」
私は言いました。
「当家の帳簿に残ります。管理院の名簿には載りませんが、帳簿は誰かが読みます」
ヴェルナーは、しばらく何も言いませんでした。
それから、少しだけ頭を下げました。
「お世話になりました」
◆
扉を閉めてから、私は廊下でしばらく立っていました。
セヴェリン様が、階段の下で待っていました。
「どうだった」
「否定されませんでした」
私は言いました。
「乙がアデル様かと伺いましたが、答えられませんでした。守秘を理由に」
「否定しなかったな」
「はい」
私は言いました。
「否定できる立場であれば、否定なさると思います。あの方は、嘘をつかない代わりに、黙られます」
◆
帰路の馬車で、私は日付表を広げました。
残るものを、書き出します。
一、私的誓約第四条。無効の確認申立。二週間で結果。
二、乙の正体。アデル様と思われるが未確認。
三、北の丘の復元誓約草案。第六条を含む。未署名。
四、二年前の秋、書斎に通った人物。同上と思われる。
五、砦の三年前の書類。未確認。
「五番目は、要らんかもしれんな」
セヴェリン様が言いました。
「紋の原因が分かった以上、他の紙を探す理由がない」
「そうでございますね」
私は、五番目を消しました。
「四つでございます」
「うち二つは、同じ人物だな」
「はい」
私は言いました。
「三つと言ってもよろしいかと」
私は、日付表を見下ろしました。
「セヴェリン様」
「なんだ」
「無効の確認が通れば、紋は消えます」
私は言いました。
「そうなれば、当家に差し迫った危険はなくなります」
「そうだな」
「丘は戻りません。ですが、放牧権がございますので、村は使えます。供託で十年、使用料は入りませんが、それだけでございます」
私は言いました。
「つまり、ここで止めることもできます」
セヴェリン様が、こちらを見ました。
「止めるか」
「止められます」
私は言いました。
「乙が誰かを確かめなくとも、危険はございません。草案に署名しなければ、第六条も効きません」
◆
馬車が、しばらく揺れました。
「――君は、止めたいのか」
セヴェリン様が言いました。
「いいえ」
私は言いました。
「ただ、止められることを、申し上げておきたかったのでございます」
「なぜだ」
「この先は、当家の損得の話ではなくなりますので」
私は言いました。
「乙が誰かを確かめるのは、セヴェリン様のご家族の話でございます。それは、私が決めることではございません」
彼は、窓の外を見ていました。
「ヴィオラ」
「はい」
「叔父は、二年前の冬まで屋敷にいた」
彼は言いました。
「私は、そのとき砦にいた。一度も会っていない」
「はい」
「三か月、週に一度、書斎に通って、請求はしなかった」
セヴェリン様は言いました。
「何を読んでいたのかを、知りたい」
私は頷きました。
「では、探します」




