第四十四話 承知した
私は、その一行を頭の中で何度も並べ直しました。
『ガルドウィンの件、承知した』
今年の春。私の婚姻誓約書が起草された時期です。
「ヨセフさん。差出は、どなたでございましたか」
「存じません」
彼は言いました。
「署名のない紙でございました。伯爵宛とも書かれておりません」
「では、なぜ伯爵の私信だと」
「束の中にございましたので」
ヨセフは言いました。
「伯爵の私信をまとめた箱でございます。中身を確かめずに、そのまま戻しました」
「今も、ございますか」
「あると存じます」
彼は言いました。
「伯爵は、紙を捨てられません。溜め込まれるお方でございます」
私は、頷きました。
確かに、そうです。父は何一つ捨てません。読まないくせに、捨てもしない。
◆
翌朝、妹たちを見送る前に、私はリナリーに頼みました。
「一つ、お願いがございます」
「なんでしょう」
「父の私信の箱に、署名のない紙が一枚ございます。今年の春のもので、ガルドウィンの件、承知した、と書かれております」
私は言いました。
「それを、写してお送りいただけますか」
リナリーは、少し驚いた顔をしました。
「お父さまの私信を」
「はい」
「――勝手に見て、よいのでしょうか」
「よくございません」
私は言いました。
「ですから、お願いしております。断っていただいてかまいません」
妹は、しばらく黙っていました。
それから、言いました。
「写します」
「ありがとうございます」
「お姉さま」
彼女は言いました。
「わたし、お姉さまに頼まれたことが、初めてです」
私は、答えに詰まりました。
「――そうでしたでしょうか」
「そうです」
リナリーは言いました。
「十年、一度もありませんでした」
◆
妹たちの馬車が門を出てから、私はしばらく玄関に立っていました。
「どうした」
セヴェリン様が言いました。
「頼んだことがない、と言われました」
私は言いました。
「言われて、思い返しました。確かに、ございませんでした」
「なぜだ」
「頼んでも、できないと思っておりました」
私は言いました。
「妹は読めませんので。頼めることが、ありませんでした」
「今は、あるな」
「ございます」
私は言いました。
「読み手が、側におりますので」
◆
六月の初め、私たちは再び王都へ発ちました。
同意書を携えての、二度目の旅です。今度は迷いがありません。往路六日、供託の手続きに二日、復路六日。
管理院の窓口には、前と同じ官吏がいました。
「補正、お済みでございますね」
「はい」
私は同意書を差し出しました。
彼女は、丁寧に読みました。
四条すべてを追い、それから顔を上げました。
「第四条は、どなたのご発案でしょうか」
私は、少し驚きました。
「――村の者でございます」
「村の」
「はい」
私は言いました。
「読み書きを学び始めた者が、条を数えて、これが必要だと申しました」
官吏は、しばらく私を見ていました。
「よい村でございますね」
「よい村でございます」
◆
供託は、その日のうちに受理されました。
受理証が、一枚交付されます。
『債権者不特定による供託。金貨二百六十枚相当。目的物は北の丘ヴァレ地区放牧権より生ずる十年分の収益。受理日、本年六月十四日』
私は、それを両手で受け取りました。
「これで、履行は完了でございますか」
「完了でございます」
官吏は言いました。
「債権者が名乗り出た場合、供託金を受領することになります。それ以上の請求は、受け付けられません」
「上限を超える請求は」
「できません」
彼女は言いました。
「供託により、債務は消滅いたします」
私は、深く息を吐きました。
「ありがとうございます」
◆
管理院を出て、階段を下りたところで、セヴェリン様が足を止めました。
「ヴィオラ」
「はい」
彼は、左手の手袋を外しました。
私は、その手を見ました。
黒い紋が、手の甲から手首にかけて残っています。
「――消えておりません」
「消えないな」
彼は言いました。
「縁は、いかがでしょうか」
私は近づいて、紋の輪郭を確かめました。
開いています。閉じてはいません。
「まだ、履行待ちでございます」
私は言いました。
「受領書の精算は、済みました。ですから――紋の原因は、受領書ではございません」
◆
私たちは、その場で立ち尽くしました。
石段を、人が上り下りしていきます。誰も、こちらを気にしません。
「別の誓約があるのか」
セヴェリン様が言いました。
「ございます」
私は言いました。
「そして、そちらのほうが本体でございます」
「私的誓約三件か」
「そうなります」
私は言いました。
「二年前の八月に登録された、相手方非公開の三件。そのいずれかに、セヴェリン様が当事者として入っております」
「私は署名していない」
「どこかで、なさっております」
私は言いました。
「砦で、読まずに署名なさった紙が、他にもあるはずでございます」
「二十九枚は、全部読んだだろう」
「読みました」
私は言いました。
「術式署名のあるものだけを、四十三枚拾いました。そのうちセヴェリン様のものが二十九枚」
私は、そこで言葉を止めました。
「――拾い損ねたかもしれません」
◆
「どういうことだ」
「私が探したのは、二年前の箱十二個でございます」
私は言いました。
「三年保存でございますので、三年前の箱もございました。ですが、私は二年前の分しか開けておりません」
「戦は二年前だぞ」
「戦だけとは限りません」
私は言いました。
「セヴェリン様は、十二の年から砦におられました。八年間でございます。三年前にも、署名なさった紙があるはずでございます」
セヴェリン様が、手袋をはめ直しました。
「三年前の箱を開けるか」
「開けます」
私は言いました。
「ただ、その前に」
「なんだ」
「鑑定を受けられるべきかと存じます」
私は言いました。
「供託は済みました。目立たない手は、使い切りました」
彼は、しばらく黙っていました。
「記録が残るな」
「残ります」
私は言いました。
「辺境伯が、身に覚えのない誓約の当事者である。その記録が」
「――かまわん」
彼は言いました。
「来年の九月までに消さねば、意味がない」
私は頷きました。
「鑑定の申請は、明日でございます」
「なぜ明日だ」
「本日の受付が、終わっております」
私は言いました。
「それと、一晩、考えたいことがございます」
◆
その夜、宿の部屋で、私は日付表に一行書き足しました。
『六月十四日、供託受理。紋は消えず』
そして、その下に。
『紋の原因は、二年前の受領書ではない』
私は、ペンを置きました。
窓の外は、王都の夜でした。
もし紋の原因が私的誓約であれば、鑑定によって特定されます。特定されれば、閲覧できます。
閲覧できれば、中身が分かります。
中身が分かれば――
私は、そこで考えを止めました。
分かったところで、消せるとは限りません。片務誓約であれば、こちらの一存では解除できない。相手方が非公開である以上、交渉相手も分かりません。
期限は、来年の九月二日。
あと一年三か月です。
そして、私の婚姻の期限は、あと一年二か月。
私は、その二つの数字を並べて、しばらく見ていました。
紋の期限より、私の期限のほうが、先に来ます。




