第四十一話 先代が見ていた紙
宿を出てから、私はしばらく無言で歩きました。
職人街の道は狭く、荷車が通るたびに端へ寄らねばなりません。セヴェリン様が、私の歩調に合わせて隣を歩いていました。
「ヴィオラ」
「はい」
「何を考えている」
「順序を、並べ直しております」
私は言いました。
「二年前の四月、境界誓約。七月、援兵。八月、私的誓約三件。九月二日、砦の受領書。九月半ば、先代様が倒れられる」
「そこに、放牧権の紙が入るのか」
「入ります」
私は言いました。
「先代様は、お倒れになる直前に、二十三年前の入会地誓約をご覧になっておりました」
「なぜ、それを探した」
「境界誓約を結ばれたのが、四月でございます」
私は言いました。
「四十歩を東へ移す。その紙に署名なさったあとで、放牧権のことを思い出されたのではないでしょうか」
◆
「思い出したら、どうなる」
「安心なさったか、あるいは」
私は言葉を選びました。
「気づかれたか、でございます」
「何にだ」
「放牧権が生きているということは、丘を貸しても完全には失わないということでございます」
私は言いました。
「先代様にとっては、安心材料でございます。ですが、同時に――」
私は足を止めました。
「モーリス家にとっては、不都合でございます」
セヴェリン様も、足を止めました。
「向こうは知っていたか」
「知っていれば、丘を取る意味が半分になります」
私は言いました。
「知らなければ、二年後に気づいて困ることになります」
「どちらだ」
「知らなかったと思います」
私は言いました。
「知っていれば、境界誓約に放牧権の消滅を書き込んだはずでございます。一行入れれば済むことでございます」
◆
私たちは、宿へ戻りました。
部屋で、私は四十四通の写しを広げました。原本は屋敷に置いてきましたが、主要なものは写しを持参しています。
二十三年前の入会地誓約。二十一年前の境界誓約。二十年前の小作契約。十九年前の境界誓約。
古い順に四通です。
「先代様が机に広げておられたのは、三通でございます」
私は言いました。
「うち一通が、入会地誓約。残りの二通が分かりません」
「当てはつくか」
「つきます」
私は言いました。
「同じ日に広げるのであれば、関係のあるものを並べるはずでございます。入会地誓約と関係があるのは、二十一年前と十九年前の境界誓約でございます」
私は、その二通を抜き出しました。
「どちらも、西の領境でございます。北の丘ではございません」
「関係ないな」
「場所は関係ございません」
私は言いました。
「ただ、条文の形が似ております」
◆
私は、二通を並べました。
「二十一年前の境界誓約。当家と、西隣のヴァイス男爵家。境界を確定させるもの」
私は読み上げました。
「第四条。『本境界に設定された既存の利用権は、本誓約によって影響を受けない』」
セヴェリン様が、身を乗り出しました。
「利用権は影響を受けない」
「はい」
私は言いました。
「放牧権や通行権が設定されている土地について、境界を動かしても権利は残る。それを明記した条文でございます」
「施行細則と同じことか」
「同じことでございます」
私は言いました。
「条文に書かなくとも、細則第百七十二条で守られます。ですが、念のために書いておく家もございます」
「では、なぜ北の丘の境界誓約には書かなかった」
私は、そこで黙りました。
◆
「――書かなかったのではないかもしれません」
私は言いました。
「書けなかったのかもしれません」
「どういうことだ」
「相手方が、拒んだ場合でございます」
私は言いました。
「利用権が残ると明記すれば、土地の価値が下がります。買う側は、書かせたくございません」
「では、黙って渡したのか」
「黙って渡しても、権利は残ります」
私は言いました。
「細則で守られておりますので。書かないほうが、当家にとって不利になるわけではございません」
「では、問題はないな」
「ございます」
私は言いました。
「書かれていなければ、相手方が知らないままになります」
◆
私は、二通を戻しました。
「セヴェリン様。先代様は、三通を並べて何をお考えだったのでしょうか」
「分からん」
「私も分かりません」
私は言いました。
「ただ、一つだけ確かなことがございます」
「なんだ」
「先代様は、放牧権が生きていることをご存じでした」
私は言いました。
「そして、そのことを誰にもお伝えになる前に、亡くなられました」
セヴェリン様が、しばらく黙っていました。
「バルトも、村も知らなかった」
「知りませんでした」
私は言いました。
「村は、モーリスの役人に入るなと言われて、そのまま引き下がりました。当家は、収入が途絶えた理由を確かめませんでした」
「二年、誰も読まなかったか」
「誰も読めませんでした」
私は言いました。
「読める者が、おりませんでしたので」
◆
翌日、私たちは王都を発ちました。
村の同意書を取りに戻り、また王都へ来る。往復で二十四日の行程です。供託の期限は九月二日ですから、余裕はあります。
馬車の中で、私は書きかけの日付表を広げました。
「セヴェリン様。整理してよろしいでしょうか」
「聞こう」
「二年前の四月、先代様が境界誓約に署名されました。ディンゲン様が書かれたもので、第六条に主語がなく、当家だけが異議を申し立てられません」
「覚えている」
「同じ四月、ドラン村の村長と覚書を交わされました。二年で戻す、という約束でございます」
私は続けました。
「七月、北の砦で戦。援兵をモーリス家から受けられました。同じ月、先代様は書斎の整理を急がせておられます」
「私が砦にいたときだ」
「八月、私的誓約が三件、管理院に登録されております。相手方は非公開」
私は言いました。
「九月二日、砦でセヴェリン様が物資受領書に署名なさいました。乙が空白の片務誓約でございます」
「九月の半ばに、父が倒れた」
「その直前、四十四通のうち三通を机に広げておられました」
私は言いました。
「うち一通が、放牧権の根拠となる入会地誓約でございます」
◆
「秋から冬にかけて、背の高い男が週に一度、書斎に通いました」
私は言いました。
「同じ頃、ディンゲン様が復元誓約の草案を作られております。依頼主は先代様でございます」
「死んだあとにか」
「そこが、分かりません」
私は言いました。
「ディンゲン様は、二年前の秋に先代様から呼ばれたと仰いました。ですが、先代様は九月半ばに亡くなられております」
セヴェリン様が、こちらを見ました。
「――合わないな」
「合いません」
私は言いました。
「九月の初めに呼ばれて、秋に作ったのであれば、話は合います。ただ、ディンゲン様は秋に呼ばれたと仰いました」
「言い間違いか」
「あるいは」
私は言いました。
「呼んだのが、先代様ではなかったか」
馬車が、石を踏んで揺れました。
「代理人でございます」
私は言いました。
「先代様の代理として動ける者が、秋の時点でおりました。帳簿の欄外に略式署名を残せる立場の者が」
「叔父か」
「断定はできません」
私は言いました。
「ただ、その者が復元誓約を作らせたのだとすれば、目的は一つでございます」
「なんだ」
「丘を、戻すことでございます」
私は言いました。
「先代様の遺志を、継ごうとした者がいたということになります」




