第三十九話 二度書きたくなかった
私は、その言葉を胸の中で繰り返しました。
同じものを、二度書きたくなかった。
「ヴェルナーさん」
「はい」
「十八年前と、今年でございます。あいだに、十八年ございます」
「ございます」
「そのあいだに、何度も婚姻誓約書をお書きになったはずでございます」
私は言いました。
「その都度、同じことを思われましたか」
ヴェルナーは、少し黙りました。
「――いいえ」
彼は言いました。
「請求権を放棄させる条文を、あれから一度も書いておりません」
「一度も」
「頼まれれば、断りました」
彼は言いました。
「断れば仕事がなくなりますので、別の書き方を提案いたします。主張しない、期間中に限る、そういった形に」
「受け入れられましたか」
「たいていは」
ヴェルナーは言いました。
「依頼主は、条文の違いを読みません。放棄でも、主張しないでも、同じに見えるのでございます」
◆
私は、自分の婚姻誓約書を思い出しました。
父は、読みませんでした。
書式が整っていて、期限が三年で、持参金が低い。それだけを確かめて、封をしました。
「では、私の第七条は、特別ではなかったのですね」
「特別ではございません」
ヴェルナーは言いました。
「十八年、そうしてまいりましたので」
私は、少し息を吐きました。
「――安堵いたしました」
彼が、顔を上げました。
「安堵、でございますか」
「はい」
私は言いました。
「私のために書かれたのでしたら、お礼を申し上げねばなりません。ですが、お礼を申し上げる筋合いのないことのほうが、私には楽でございます」
ヴェルナーは、しばらく私を見ていました。
「……お若いのに、変わったことを仰る」
「そうでしょうか」
「普通は、自分のためであってほしいと思うものでございます」
「私は、そういうふうに育っておりませんので」
◆
咳が、また続きました。
今度は短いものでした。彼は水を飲み、息を整えました。
「ヴェルナーさん」
私は言いました。
「お加減が悪いようでございます」
「歳でございます」
彼は言いました。
「四十五でございますので」
「四十五は、歳ではございません」
「そうでございますか」
彼は少し笑いました。
「では、長く座りすぎたのでございましょう。二十年、机の前におりましたので」
私は、書棚を見ました。
紙の束が、天井近くまで詰まっています。控えでしょう。二十年分の。
「あの控えは」
「私の仕事の記録でございます」
ヴェルナーは言いました。
「どの家の、どの誓約書を、いつ書いたか。それだけでございます」
「中身は」
「書いておりません」
彼は言いました。
「守秘がございますので」
◆
「ヴェルナーさん。一つだけ、お願いがございます」
「なんでございましょう」
「二十四通の打ち消し誓約について、当家の帳簿に記録を残したく存じます」
私は言いました。
「譲られたもの、譲られた相手、日付。ご記憶の範囲で結構でございます」
ヴェルナーは、少し考えました。
「――なぜでございますか」
「記録がないからでございます」
私は言いました。
「あなたが四年かけてなさったことが、当家のどこにも残っておりません。帳簿にも、誓約書にも」
「残す必要はございません」
彼は言いました。
「仕事でございますので」
「ございます」
私は言いました。
「残さなければ、次に誰かが同じ誓約書を読んだとき、なぜこの条文が打ち消されているのかが分かりません。分からなければ、また同じことを繰り返します」
私は続けました。
「それに」
「それに」
「十二年間、あなたがこの家を守っておられたことを、誰も知らないままになります」
◆
部屋が、静かになりました。
ヴェルナーは、しばらく手元を見ていました。
やがて、彼は言いました。
「……控えを、ご覧になりますか」
「よろしいのですか」
「当家に関する分だけでございます」
彼は言いました。
「守秘は、依頼主に対するものでございます。ガルドウィン家の分を、ガルドウィン家にお見せするのは、守秘に反しません」
セヴェリン様が、書棚のほうへ目をやりました。
「量がある」
「三冊でございます」
ヴェルナーは言いました。
「十二年で、三冊。上から二段目の、左端でございます」
◆
私は立ち上がり、書棚から三冊を抜きました。
古い革表紙で、背に年が書かれています。埃はありません。しまい込まれた本ではなく、使われている本の埃のなさでした。
一冊目を開きました。
日付、依頼主、誓約書の種類、通数。それだけが、細かい字で並んでいます。
そして、備考欄がありました。
「備考に、何か書いておられます」
「一言だけでございます」
ヴェルナーは言いました。
「後で見返したときに、思い出せるように」
私は、備考を読みました。
『小作、更新条項に難あり。要打消』
『打消済。通行権一件を譲る』
『入会、期限一方的。要打消』
『打消済。上納減免を譲る』
すべて、記録されていました。
十二組、二十四通。譲ったものも、日付も。
私は、顔を上げました。
「ヴェルナーさん。これは」
「写しをお取りください」
彼は言いました。
「書き写す時間は、ございましょう」
◆
写すのに、二日かかりました。
私は毎朝、宿へ通いました。セヴェリン様も、初日は同行しましたが、二日目からは王都の別の用に回りました。
三冊のうち、当家に関する記載は百四十ほどありました。
写しながら、私は十二年分の仕事を辿ることになりました。
年に二度か三度。数日滞在して、溜まった誓約書を処理する。不利な条文を見つけると、備考に印をつけ、次の訪問までに打ち消しの段取りをつける。
備考には、ときどき、別のことも書かれていました。
『当主、書類を読まず。説明するも聞かれず』
『当主子息、砦へ。書類の扱いを教える機会なし』
『当主子息、帰邸せず。三年目』
私は、その三行で手を止めました。
「ヴェルナーさん」
「はい」
「当主子息、と書いておられます」
「辺境伯のことでございます」
「書類の扱いを教える機会がない、と」
「はい」
彼は言いました。
「お若い頃に、一度お教えしたいと思っておりました。ですが、砦へ出られてからは、屋敷でお会いすることがほとんどございませんでしたので」
「先代様には」
「申し上げました」
ヴェルナーは言いました。
「ご子息に誓約書の読み方を教えるべきだと。二度ほど」
「なんと仰いましたか」
彼は、少し間を置きました。
「――あれは兵にする、と」




