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離縁の日まで、契約どおりに愛しません ~冷酷と噂の辺境伯に嫁いだ誓約術師は、三年で出ていく予定でした~  作者: やまご


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第三十八話 職人街の宿

職人街の外れに、その宿はありました。


三階建ての古い建物です。一階が食堂になっていて、朝から職人らしい男たちが出入りしています。


「ヴェルナーという方は」


帳場で尋ねると、老いた主人が顔を上げました。


「三階の奥でございます。ただ」


彼は少し言いよどみました。


「ここひと月ほど、お出かけになっておりません」


私は、セヴェリン様と顔を見合わせました。


「ご病気でしょうか」


「そのようで」


主人は言いました。


「食事をお運びしております。医者も一度」


   ◆


三階の廊下は暗く、板が軋みました。


奥の扉を叩くと、しばらくして、中から声がしました。


「どうぞ」


低く、少し掠れた声でした。


扉を開けると、狭い部屋でした。寝台と、机と、書棚が一つ。書棚には紙の束が詰まっています。


ヴェルナーは、寝台に半身を起こしていました。


私たちを見て、彼は少し目を見開きました。


「――これは」


「突然に、申し訳ございません」


私は言いました。


「王都に参りましたので」


「辺境伯まで」


彼は寝台から下りようとしました。セヴェリン様が手で制しました。


「そのままで」


   ◆


ヴェルナーは、痩せていました。


秋に会ったときより、ひと回り小さく見えます。顔の色が悪く、頬がこけていました。


「四十四通は、届きましたでしょうか」


彼が尋ねました。


「届きました」


私は言いました。


「四十四通、すべて」


「よろしゅうございました」


彼は息を吐きました。


「油紙の内側に、一行書いておられましたね」


「ご覧になりましたか」


「拝見いたしました」


私は言いました。


「封を解かれた形跡がある場合は、通数を数えられたし、と」


ヴェルナーは、少し笑いました。


「用心でございます。ただの」


   ◆


私は、机の脇の椅子を勧められて、腰を下ろしました。


セヴェリン様は、扉の近くに立ったままです。


「ヴェルナーさん。伺いたいことがございます」


「はい」


「二十四通が、対になっておりました」


彼の目が、こちらを向きました。


「気づかれましたか」


「気づきました」


私は言いました。


「先代様がご自身で処理しておられた四年間の、不利な条文。それを打ち消す誓約が、対で結ばれておりました」


「さようでございます」


「あれは、どなたが」


「私でございます」


彼は言いました。


「十二年前に、当家へ伺うようになりまして。溜まっていた誓約書を読みましたところ、ひどい有様でございました」


   ◆


「打ち消しの誓約は、どのように」


「一組ずつ、相手方に会いに参りました」


ヴェルナーは言いました。


「小作人、隣村の村長、商会の番頭。一人ずつ訪ねて、条文を書き直させていただきたいと」


「応じたのですか」


「半分ほどは」


彼は言いました。


「残りは、何かを譲りました」


「譲ったものは」


「当家の側の、些細な権利でございます」


ヴェルナーは言いました。


「使われていない通行権、名目だけの上納の減免、そういったものを。帳簿に載らぬものばかりでございます」


私は、頷きました。


帳簿に載らない。だから、記録がない。


「四年かかりました」


彼は言いました。


「十二組を直すのに」


   ◆


「なぜ、そこまでなさいましたか」


私は尋ねました。


ヴェルナーは、しばらく黙っていました。


「――仕事でございますので」


「報酬は、年に二度か三度の分だけでございましたね」


「はい」


「割に合いません」


「合いません」


彼は認めました。


「ただ、あのまま放っておけば、あの家は十年で傾いておりました。傾けば、私の仕事もなくなります」


答えとしては、筋が通っています。


けれど、答えが速すぎました。


用意された答えです。


   ◆


私は、話を変えました。


「ヴェルナーさん。私の婚姻誓約書の第七条を、なぜ変えられましたか」


彼の指が、寝具の上で動きました。


「秋にも、お尋ねになりました」


「はい。好みだと仰いました」


「好みでございます」


「消えてしまう条文が、好きではないと」


「はい」


私は、少し待ちました。


彼は、それ以上言いませんでした。


「ヴェルナーさん」


「はい」


「十八年前の婚姻誓約書を、ご覧になりましたか」


   ◆


部屋が、静かになりました。


窓の外で、職人街の朝の音がしています。槌の音と、荷車の音。


「――ご覧になったのですね」


ヴェルナーが言いました。


「拝見いたしました」


私は言いました。


「相続の束に、混ざっておりました」


「分類を、誤りました」


彼は言いました。


「六百通ございましたので」


「秋にも、そう仰いました」


私は言いました。


「一拍、遅れておられました」


ヴェルナーが、こちらを見ました。


穏やかな目でした。


「――数えておられましたか」


「数えておりました」


「ご無礼を申し上げますが」


彼は言いました。


「奥様は、少し恐ろしいお方でございますな」


「よく言われます」


私は言いました。


「実家では、可愛げがないと」


   ◆


ヴェルナーは、少し笑いました。


笑って、それから、咳をしました。


長い咳でした。セヴェリン様が一歩踏み出しましたが、彼は手で制しました。


「失礼を」


「お休みになりますか」


「いえ」


彼は言いました。


「――申し上げます」


私は、膝の上で手を組みました。


「十八年前の第七条は、私が書きました」


ヴェルナーは言いました。


「アデル様の婚姻誓約書でございます」


私は、息を詰めました。


「二十七のときでございます」


彼は言いました。


「先代様のご依頼で、王都から呼ばれました。書けと言われた条文を、そのまま書きました」


「放棄と」


「放棄と、書けと言われました」


彼は言いました。


「アデル様が、十年働かれた分でございます。それを、婚姻の日に消す条文を、私が書きました」


   ◆


「アデル様は、ご存じでしたか」


「ご存じでした」


ヴェルナーは言いました。


「署名の前に、読まれました。第七条で、一度指が止まりました」


「何か仰いましたか」


「何も」


彼は言いました。


「署名なさいました」


私は、しばらく何も言えませんでした。


「――なぜ、署名を」


「存じません」


ヴェルナーは言いました。


「ただ、その二年後に、家を出られました」


セヴェリン様が、扉のところで動きました。


「叔父は、今どこにいる」


ヴェルナーは、視線を上げました。


答えるまでに、間がありました。


一拍、二拍、三拍。


「――存じません」


四拍目でした。


「二年前の秋、当家の書斎に通っていた男がいる」


セヴェリン様が言いました。


「背の高い、四十過ぎの男だ」


ヴェルナーは、答えませんでした。


「あなたと入れ替わりだ」


「――辺境伯」


彼は言いました。


「私は、知らぬことは知らぬと申し上げます」


「では、知っていることを言え」


セヴェリン様の声が、低くなりました。


ヴェルナーは、しばらく黙っていました。


それから、静かに言いました。


「私が申し上げられますのは、一つだけでございます」


「言え」


「奥様の第七条を変えましたのは」


彼は言いました。


「――同じものを、二度書きたくなかったからでございます」


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