第三十五話 十二年
「十二年」
セヴェリン様が、その数字を口に出しました。
「二年前からではなく」
「十二年前からでございます」
私は言いました。
「アデル様が家を出られて四年後から、ヴェルナーさんが当家に出入りしておられます」
「なぜ、そう言わなかった」
「私が伺わなかったからでございます」
私は言いました。
「バルトさんには、二年前の書斎の整理について尋ねました。その前のことを、伺っておりませんでした」
セヴェリン様は、しばらく黙っていました。
「私が四つのときに叔父が出て、八つのときからあの男が来ていたのか」
「そうなります」
私は言いました。
「バルトさんによれば、年に二度から三度。溜まった誓約書を処理して、帰る。そういう形だったそうでございます」
「覚えていない」
「幼い頃でございます」
私は言いました。
「それに、あの方は目立たぬようにしておられます。私も、初めてお会いしたときに、そう感じました」
◆
私は、日付の表を書き直しました。
十二年前から、ヴェルナーが当家に出入りを始めた。
二年前の夏、先代様が書斎の整理を依頼した。
二年前の秋、先代様が死去。整理は途中で止まり、書類が持ち出された。
その秋から冬、背の高い男が週に一度、書斎に通った。
翌年の一月から、ヴェルナーが再び定期的に来るようになった。
「セヴェリン様。今まで、二年前を起点に考えておりました」
私は言いました。
「起点が、間違っていたかもしれません」
「十二年前か」
「あるいは、十六年前でございます」
私は言いました。
「アデル様が家を出られたときでございます」
◆
その日から、私は書斎の誓約書を、もう一度読み直しました。
今度は、目録を作るためではありません。書き手を探すためです。
句読の癖。条文の並べ方。余白の取り方。
五百六十一通を、書き手ごとに分類していきます。
十日かかりました。
結果は、こうなりました。
先々代の代のもの、およそ百二十通。書き手は複数。古い書式です。
二十年前から十六年前まで、およそ九十通。書き手は一人。句読は二か所。条文の並べ方が独特で、権利に関する条文を前に置く癖があります。
十六年前から十二年前まで、四十通ほど。書き手がばらばらです。定型を写しただけのものが多く、書式に乱れがあります。
十二年前から現在まで、およそ三百通。書き手は一人。句読は二か所。並べ方も、二十年前から十六年前までのものと、よく似ています。
「――似ております」
私は顔を上げました。
「アデル様の時期と、ヴェルナーさんの時期の書式が、よく似ております」
セヴェリン様が、束を覗き込みました。
「同じ人間か」
「違います」
私は言いました。
「一か所、確かな違いがございます」
◆
私は、二通を並べました。
「こちらが十八年前、アデル様の時期のものでございます。こちらが十年前、ヴェルナーさんの時期」
「同じに見える」
「日付の書き方が違います」
私は指で示しました。
「アデル様の時期は、月を先に、日を後に書いておられます。十八年、九月、十二日」
「こちらは」
「日を先に書いております。十二日、九月」
私は言いました。
「管理院の正式な書式は、月が先でございます。日を先に書くのは、南部の書き方でございます」
「ヴェルナーは南部の出か」
「かもしれません」
私は言いました。
「ただ、大事なのは、二人が別人だということでございます。同じ人であれば、日付の書き方までは変わりません」
「では、なぜ似ている」
「習ったのだと思います」
私は言いました。
「ヴェルナーさんが、アデル様の書いたものを読んで、そこから学ばれた。この家の誓約書を引き継いだのですから、当然のことでございます」
◆
「――では、繋がりはないのか」
セヴェリン様が言いました。
「書式の類似だけでは、繋がりとは言えません」
私は言いました。
「ただ、一つ気になることがございます」
「なんだ」
「十六年前から十二年前までの四年間でございます」
私は、乱れた四十通を示しました。
「この時期のものは、書式が整っておりません。定型を写しただけで、判断の入った条文がございません」
「父が自分で書いたと、バルトが言っていた」
「はい」
私は言いました。
「そして、この四年のあいだに、当家は損をしております」
◆
私は、四十通のうち八通を抜き出しました。
「小作契約が三通、入会地が二通、境界が三通でございます。いずれも、当家に不利な条文が入っております」
「どんな条文だ」
「更新時に、相手方が条件を変えられる、というものが二通」
私は言いました。
「期限が一方にだけ有利なものが三通。それと、境界の三通は、測量費用をすべて当家が負担する形になっております」
「合計すると」
「大きうございます」
私は言いました。
「この四年で、当家は相当のものを失っております。目に見える金ではございません。条文の不利が、その後十年かけて効いてくる形でございます」
セヴェリン様が、眉を寄せました。
「読める者がいなかったからか」
「そうでございます」
私は言いました。
「先代様は、読めぬまま署名しておられました。相手方には、読める者がおりました」
私は八通を並べ直しました。
「そして、十二年前にヴェルナーさんが来られてから、この種の不利な条文は、ぱたりと止まっております」
◆
執務室が、静かになりました。
「――止まっている」
「止まっております」
私は言いました。
「十二年前から二年前まで、三百通ほどございますが、明らかに不利な条文は、ほとんど見当たりません。多少の偏りはございますが、相場の範囲内でございます」
「あの男が、防いでいたのか」
「防いでおられたと思います」
私は言いました。
「無資格で、年に二度か三度来るだけの書類屋でございます。それでも、十年間、この家の誓約書はまともでした」
セヴェリン様は、机の上の束を見下ろしていました。
「では、なぜ二年前に、あの受領書が通った」
私は、そこで言葉を止めました。
考えていなかったわけではありません。ただ、口に出すのをためらっていました。
「――砦でございます」
私は言いました。
「屋敷ではございません」
「同じことだろう」
「違います」
私は言いました。
「ヴェルナーさんは、屋敷の書類を見ておられました。砦の書類は、見ておられません」
「見せなかったのか」
「見せる習慣がなかったのだと思います」
私は言いました。
「砦は軍の書類でございます。領地の誓約書とは扱いが別です。ガレン殿も、砦で処理するものと思っておられました」
「では、あの男の落ち度ではないと」
「落ち度ではございません」
私は言いました。
「ただ」
◆
私は、日付の表を引き寄せました。
「二年前の夏でございます」
私は言いました。
「六月から九月まで、砦で戦がございました。同じ時期に、ヴェルナーさんは屋敷で書斎の整理をしておられます」
「時期が重なるな」
「重なります」
私は言いました。
「先代様が整理を依頼されたのは、二年前の七月でございます。戦の最中でございます」
セヴェリン様が、顔を上げました。
「戦の最中に、書斎の整理か」
「不自然でございます」
私は言いました。
「領主にとって、戦の最中に最も後回しになるのが、古い書類の整理でございます。それを、わざわざその時期に依頼しておられます」
「では、理由があったのか」
「探しておられたのかもしれません」
私は言いました。
「整理と称して、何かを探させていた」
私は、八通の不利な誓約書を示しました。
「先代様は、四年間、読めぬまま署名なさいました。その結果、多くを失っておられます。十二年前にヴェルナーさんを呼ばれたのも、それに気づかれたからかもしれません」
「気づいていたのか」
「損は、金で分かります」
私は言いました。
「読めなくとも、収入が減れば分かります」




