第三十三話 読み手同士
協議が終わり、双方が卓を片付け始めたときでした。
「奥様」
ディンゲンが、声をかけてきました。
「少し、よろしゅうございますか」
私はセヴェリン様を見ました。彼は馬車のほうへ歩きかけて、足を止めています。
「かまわん」
「では」
私は卓の脇に残りました。
子爵と家令は、少し離れたところで話しています。丘の上の風が、二人の声を運んでこない程度の距離でした。
「先ほどの、第六条のことでございますが」
ディンゲンは言いました。
「気づかれるとは、思っておりました」
「見つけやすく書いてございました」
私は言いました。
「別途締結済み、という言い方は、目を引きます。何を指すのかと、必ず考えます」
「はい」
彼は言いました。
「隠すつもりで書いてはおりません」
◆
私は、少し意外に思いました。
「隠されなかったのですか」
「隠す条文は、別の書き方をいたします」
ディンゲンは言いました。
「奥様であれば、ご存じかと」
「主語を落とす、でしょうか」
「たとえば」
彼は頷きました。
「第六条は、読めば分かるように書きました。読めば分かるものは、隠したことになりません」
「では、なぜ入れられたのですか」
「主家の利のためでございます」
彼は言いました。
「私は子爵家の抱えでございます。先代辺境伯のご依頼を受けましたが、雇い主は子爵家でございます。書く以上、主家の利を損なわぬようにするのが、務めでございます」
「損なわぬように、と、利を取りに行くのは、違うかと存じます」
「違います」
ディンゲンは認めました。
「第六条は、取りに行っております」
◆
風が、卓の上の紙を鳴らしました。
私は、それを押さえました。
「ディンゲン様」
「はい」
「境界誓約の第六条は、主語がございませんでした」
彼は、こちらを見ました。
「お気づきでしたか」
「気づきました」
私は言いました。
「施行細則第五十八条により、異議を申し立てられないのは当家だけでございます」
「さようでございます」
「あれも、あなたが」
「私でございます」
彼は言いました。
◆
「なぜ、主語を落とされたのですか」
私は尋ねました。
「はっきり書けば、争えなくなります。主語を落とせば、争う余地が残ります」
ディンゲンは、しばらく黙っていました。
「――奥様は、どちらだと思われますか」
「二つ、考えました」
私は言いました。
「一つ。書いた者が、後で気づかれることを織り込んでいた場合。もう一つ、書いた者が、精一杯の手加減をした場合でございます」
彼は、答えませんでした。
代わりに、別のことを言いました。
「二十二年前、私は管理院の試験を受けました」
私は口を閉じました。
「同期に、ヴェルナーという男がおりました」
◆
「ご存じでしたか」
「存じております」
私は言いました。
「名簿を取り寄せました。あなたの名も、そこで見ました」
「では、あの男が辞退したこともご存じで」
「十一月の二十日とだけ、伺っております」
ディンゲンは、丘の下のほうを見ました。
「あの男は、私より腕がございました」
彼は言いました。
「学科は、常に上でございました。最終まで進めば、間違いなく通っておりました」
「なぜ辞退されたのですか」
「家の事情でございます」
彼は言いました。
「そう聞いております。それ以上は、私も存じません」
「その後は」
「王都で書類仕事を。登録がございませんので、各家を回っております」
ディンゲンは言いました。
「二十年以上でございます」
◆
「ディンゲン様」
「はい」
「あなたは、登録なさいました」
「いたしました」
「二十二年前に」
「その翌年でございます」
彼は言いました。
「私は三男で、相続権がございませんでした。要件を満たしておりましたので」
私は、その言い方に引っかかりました。
「ヴェルナーさんは、満たしておられなかった」
「そう伺っております」
「今は、満たしておられます」
私は言いました。
「家がなくなった、と本人が仰いました」
ディンゲンが、こちらを見ました。
初めて、表情が動いたように見えました。
「――家が」
「ご存じございませんでしたか」
「存じません」
彼は言いました。
「あの男とは、この二十年、数えるほどしか会っておりません」
◆
私は、少し踏み込むことにしました。
「ディンゲン様。二年前の秋、当家の書斎に、週に一度、通っていた者がおります」
彼は、動きませんでした。
「三か月でございます。銀貨十二枚を、十四回」
「――さようでございますか」
「ヴェルナーさんではございません」
私は言いました。
「あの方は、その翌年から来ておられます。入れ替わりでございます」
ディンゲンは、しばらく黙っていました。
「奥様」
「はい」
「私に、何をお尋ねになりたいのでしょうか」
「その方が、どなたか」
私は言いました。
「背の高い、四十過ぎの男でございます。口数が少なく、誓約書を扱える」
彼は、答えませんでした。
答えの速さを数えました。
三拍、四拍、五拍。
「――存じません」
遅い。
◆
「そうですか」
私は頷きました。
「お手数をおかけいたしました」
ディンゲンは、礼をしました。
それから、顔を上げて、少し早口で言いました。
「奥様。一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「はい」
「草案の第六条は、消せます」
私は、動きを止めました。
「消せる、と申しますと」
「双務誓約でございます」
彼は言いました。
「第五条に、双方の術式署名により効力を生じる、と書いてございます。双務であれば、当事者の合意で条文を修正できます」
「合意が要ります」
「要ります」
ディンゲンは言いました。
「ですから、子爵が合意すれば、第六条は消えます」
「合意されるとは、思えません」
「今は、思えません」
彼は言いました。
「ただ、条件が揃えば、変わります」
「条件と申しますと」
ディンゲンは、丘の下を見ました。
子爵が、家令と何か話しています。
「奥様は、放牧権をお使いになるおつもりでしょう」
「使います」
「羊が丘に上がれば、あの土地は当家にとって使えぬ土地になります」
彼は言いました。
「買い手も付きません。放牧権の付いた土地は、値が三分の一になります」
私は、彼の言おうとしていることを、理解し始めました。
「――売れない土地を、抱え続けることになります」
「さようでございます」
ディンゲンは言いました。
「そうなれば、四十歩を返して、精算だけを別に交渉するほうが、当家にとって得になります」
◆
私は、しばらく彼を見ていました。
「ディンゲン様」
「はい」
「今のお話は、あなたの主家にとって不利でございます」
「不利ではございません」
彼は言いました。
「損を早く確定させるのは、利でございます。抱え込んで値下がりを待つよりは」
「では、なぜ私に」
「私は、読み手でございます」
ディンゲンは言いました。
「読み手の務めは、揉めぬように書くことでございます。揉め続けるのは、どちらの損にもなります」
彼は一礼しました。
「では、失礼いたします」
歩き出して、三歩で振り返りました。
「奥様」
「はい」
「第六条を見つけられたのは、奥様が二人目でございます」
私は、息を止めました。
「一人目は」
彼は答えずに、丘を下りていきました。




