第三十二話 雪解けの協議
街道が開いたのは、四月の半ばでした。
協議の日は二十二日と決まりました。場所は、前回と同じ北の丘です。こちらが指定し、今回は向こうも異を唱えませんでした。
「一年ぶりだな」
丘へ向かう馬車で、セヴェリン様が言いました。
「夏に一度、秋に一度でございます」
私は言いました。
「これで三度目でございます」
「その三度で、ずいぶん変わった」
「はい」
私は膝の上で、書類の束を押さえました。
今日持っていくのは、五通です。境界誓約の写し、覚書の写し、入会地誓約の写し、放牧権に関する通知の控え、そして施行細則の該当条文の写し。
砦の受領書は、持っていきません。
「出さないのか」
出立の前、セヴェリン様に確かめられました。
「出しません」
私は言いました。
「まだ、向こうが知っているかどうか分かりません。知らないのであれば、こちらから教える必要はございません」
◆
丘の上には、緑が戻り始めていました。
去年は枯れた草しかなかった斜面に、若い芽が出ています。杭の列は、雪に押されて何本か傾いていました。
モーリス子爵は、今回も本人が来ていました。家令と、それからもう一人。
痩せた、五十がらみの男です。
「紹介いたそう」
子爵が言いました。
「当家の読み手、ラウル・ディンゲンです」
私は、その顔を見ました。
穏やかな表情でした。ヴェルナーと同じ種類の、目の合わない礼の仕方をします。
「ディンゲンでございます」
「ヴィオラと申します」
◆
卓につくと、子爵が先に切り出しました。
「放牧権の件は、当家として争わぬと申し上げた。そのとおりにいたす」
「ありがとうございます」
「ただし」
子爵は言いました。
「二年分の妨害について、そちらは何も言ってこられなかった」
「はい」
「なぜです」
私は、少し間を置きました。
「争いたくございませんでしたので」
「それだけですかな」
「それだけでございます」
私は言いました。
「争えば、村が丘を使えるのが来年になります。今年、羊を入れられるほうが、村にとって得でございます」
子爵は、しばらく私を見ていました。
「――村のためですか」
「村のためでございます」
私は言いました。
「当家のためでもございます。使用料が入りますので」
子爵が、少し笑いました。
「正直なことだ」
◆
「では、こちらも申し上げよう」
子爵は、家令に目配せをしました。
家令が、革の筒から一枚の羊皮紙を取り出し、卓に置きました。
「草案でございます」
私は、息を止めました。
「北の丘の復元誓約の草案でございます」
子爵は言いました。
「当家が保管しておりました」
「――いつから」
「二年前の秋からです」
◆
私は、草案に手を伸ばしました。
子爵は止めませんでした。
広げます。
表題は『境界復元誓約書(案)』。日付の欄は空白です。
全七条。
第一条から第三条まで、境界を旧位置へ復する定型でした。四十歩、東から西へ。覚書と一致します。
第四条。復元に要する測量と杭の設置の費用は、甲が負担する。
甲はガルドウィン家です。
第五条。本誓約は、双方の術式署名により効力を生じる。
双務です。片務ではありません。
第六条。
私は指を止めました。
『本誓約の効力発生と同時に、甲は乙に対し、別途締結済みの精算義務を履行するものとする』
「セヴェリン様」
私は言いました。
「第六条をご覧ください」
◆
「別途締結済みの精算義務」
セヴェリン様が読み上げました。
「――砦の受領書か」
私は答えませんでした。
代わりに、顔を上げました。
「子爵。第六条の、別途締結済みの精算義務とは、何を指しますでしょうか」
子爵は、ディンゲンのほうを見ました。
ディンゲンが、静かに口を開きました。
「二年前の援兵に係る精算でございます」
やはり、知っている。
「精算の取り決めは、どちらにございますか」
「北の砦の受領書にございます」
彼は言いました。
「九月二日付、物資受領書。辺境伯のご署名がございます」
「その受領書には、乙の記載がございません」
私は言いました。
「乙が空白でございます。誰が請求権者か、書かれておりません」
ディンゲンの表情は、変わりませんでした。
「この草案の第六条により、特定されます」
彼は言いました。
「本誓約の乙は、モーリス子爵家でございます。第六条が効力を生じれば、受領書の乙も、同時に特定されることになります」
◆
丘の上を、風が渡りました。
私は、草案を卓の上に置き直しました。
仕掛けが、見えました。
境界を戻したければ、この草案に署名する。署名すれば境界は戻る。同時に、第六条によって、上限のない精算義務の相手方が確定する。
境界四十歩と引き換えに、無制限の請求権を渡すことになります。
「――なるほど」
私は言いました。
「よく出来ております」
ディンゲンが、初めてこちらを見ました。
「恐れ入ります」
「書かれたのは、あなたですか」
「私でございます」
彼は認めました。
「先代辺境伯のご依頼で、草案を作りました」
私は、少し驚きました。
「先代様の依頼で」
「はい」
ディンゲンは言いました。
「二年前の秋、先代様が私をお呼びになりました。境界を戻したい、と。そのための草案を作れと仰せでした」
「第六条も、先代様のご指示で」
「いいえ」
彼は言いました。
「第六条は、私が入れました」
◆
子爵が、少し身じろぎをしました。
「ディンゲン」
「申し上げます」
読み手は言いました。
「私は当時、モーリス家の抱えでございました。先代辺境伯からのご依頼を受けるにあたり、主家の利益を損なわぬようにするのが務めでございます」
「両方から頼まれたのか」
セヴェリン様が言いました。
「依頼主は、先代辺境伯おひとりでございます」
ディンゲンは言いました。
「ただ、私は子爵家の抱えでございます。そのことを、先代様もご承知でした」
「承知のうえで頼んだのか」
「他に、書ける者がおられませんでしたので」
私は、その一言に、少し息を詰めました。
書ける者がいない。だから、相手方の抱えに頼む。頼まれたほうは、書きながら主家の利を入れる。
誰も嘘をついていません。
誰も、罰を受けません。
「では、先代様は、第六条をご存じでしたか」
私は尋ねました。
ディンゲンは、少し間を置きました。
「草案は、お渡ししております」
「読まれましたか」
「――存じません」
◆
私は、草案を手に取りました。
「子爵。この草案を、当家でお預かりすることは」
「できません」
子爵が言いました。
「当家の保管物です。写しであればお渡しする」
「では、写しを頂戴いたします」
私は言いました。
「持ち帰って、検討いたします」
「署名されますかな」
「いたしません」
私は即答しました。
「第六条がある限り、署名はいたしません」
子爵の眉が、上がりました。
「では、境界は戻りませんな」
「戻りません」
私は言いました。
「戻さないほうが、当家にとって得でございます」
◆
丘の上が、静かになりました。
「――どういう意味ですかな」
「四十歩の土地と、上限のない請求権を比べております」
私は言いました。
「土地は、失っても村は困りません。放牧権が生きておりますので、使うことはできます。所有が向こうにあっても、当家の損は使用料の一部だけでございます」
私は草案を卓に戻しました。
「一方、第六条に署名すれば、上限のない請求を負います。これは、比べるまでもございません」
子爵は、しばらく黙っていました。
「放牧権を認めたのは、失敗だったかもしれん」
彼は言いました。
「認めなければ、丘は使えぬままでした。使えぬままなら、そちらは境界を戻すしかなかった」
「そのとおりでございます」
私は言いました。
「ですから、認めていただいて、ありがとうございました」
ディンゲンが、わずかに口の端を動かしました。
笑ったのだと思います。




