第三十話 放牧権という一行
覚書の最後の一行を、私は改めて読みました。
『ドラン村の放牧権は、この間も継続して認める』
この間、というのは、境界を東へ移している二年のあいだ、という意味です。
そして、覚書は効力を持ちません。術式署名がないからです。
「効力がないのでは、意味がないのではないか」
セヴェリン様が言いました。
「覚書としては、ございません」
私は言いました。
「ですが、放牧権そのものは、覚書によって発生したものではございません」
「では、どこから」
「もっと古い誓約でございます」
私は書斎から一束を持ってきました。
「二十三年前の、入会地に関する誓約書でございます。北の丘ヴァレ地区について、ドラン村の放牧権を認めるもの。当家と村との二者誓約でございます」
「それが、まだ生きているのか」
「生きております」
私は言いました。
「更新の規定がございません。期限もございません。一度結べば、解除の誓約を結ぶまで続きます」
◆
「解除したのか」
「しておりません」
私は言いました。
「境界誓約は、当家とモーリス家のあいだのものでございます。ドラン村は当事者ではございません」
「だが、土地は向こうのものになった」
「土地の所有は移りました」
私は言いました。
「ですが、放牧権は所有権ではございません。他人の土地を使う権利でございます」
私は施行細則を開きました。
「第百七十二条。土地に設定された利用権は、所有者の変更によって消滅しない」
セヴェリン様が、身を起こしました。
「――消滅しない」
「いたしません」
私は言いました。
「モーリス子爵家は、放牧権の付いた土地を取得したことになります」
◆
「では、ドラン村は今も丘を使えるのか」
「使えます」
私は言いました。
「使えるはずでございます。ただ、二年間、誰も使っておりません」
「なぜだ」
「知らなかったからでございます」
私は言いました。
「村の者は、丘が向こうのものになったと聞かされました。ですから、もう使えないと思いました。当家も、放牧権の存在を確かめておりませんでした」
「帳簿には、権利未使用と書いてある」
「バルトさんが、正確に書いておられます」
私は言いました。
「失われた、ではなく、未使用、と。この二年、使用料の収入が途絶えている理由を、そう記録されております」
セヴェリン様が、しばらく黙っていました。
「バルトは、知っていたのか」
「いいえ」
私は言いました。
「ただ、書き方が正確でした。失われたと書く根拠がなかったので、未使用と書かれたのだと思います」
◆
私はバルトを呼び、確かめました。
「バルトさん。この項目を、なぜ未使用となさいましたか」
家令は、少し考えました。
「……村が使っておりませんでしたので」
「失われた、とはお書きになりませんでしたね」
「はい。誰からも、失われたとは伺っておりませんでしたので」
彼は言いました。
「収入が途絶えた理由を、私は存じませんでした。存じませんので、事実だけを書きました」
私は、その答えに少し感じ入りました。
「バルトさん」
「はい」
「あなたのその書き方が、今、当家を助けております」
家令は、意味を取りかねる顔をしました。
「……さようでございますか」
「さようでございます」
◆
「では、どうする」
セヴェリン様が言いました。
「まず、村に伝えます」
私は言いました。
「放牧権は生きている。丘は使える。その事実を、ドラン村に」
「モーリス家が怒るぞ」
「怒られるかと存じます」
私は言いました。
「ですが、これは事実でございます。事実を伝えることを、止める根拠がございません」
「訴えられたら」
「争えます」
私は言いました。
「第百七十二条は明文でございます。解釈の余地がございません」
セヴェリン様は、少し考えていました。
「――収入が戻るのか」
「戻ります」
私は言いました。
「二年分の使用料は、村が使っておりませんので、請求できません。ですが、来年からは戻ります。それと」
私は帳簿を示しました。
「モーリス家に対して、二年分の請求ができる可能性がございます」
「なぜだ」
「放牧権の付いた土地を取得した者は、その権利を妨げてはなりません」
私は言いました。
「モーリス家が、村に対して丘を使えないと伝えていたのであれば、権利の妨害に当たります。妨害されたことによる損失は、請求できます」
◆
「伝えていたのか」
「分かりません」
私は言いました。
「村の者に確かめる必要がございます。誰から、何を聞いたのか」
「雪が深いぞ」
「行けます」
私は言いました。
「ドラン村までは、道が踏まれております。テオさんの指導にも、まだ通っておりますので」
「一人で行かせるわけにはいかん」
セヴェリン様が言いました。
「私も行く」
◆
翌々日、私たちはドラン村へ向かいました。
雪の道を、馬車がゆっくり進みます。村に着くと、集会所に十人ほどが集まっていました。字の指導の日だと思われていたようです。
「今日は、別の用でございます」
私は言いました。
「北の丘の放牧権について、確かめたいことがございます」
ガーロ村長が、顔をしかめました。
「放牧権なんて、もうないでしょう」
「ございます」
私は言いました。
「二十三年前の誓約書が、生きております」
集会所が、ざわつきました。
「境が動いたのに?」
「境が動いても、権利は消えません」
私は施行細則の写しを卓に置きました。
「土地に設定された利用権は、所有者が変わっても消滅しない。条文にそう書かれております」
村長が、写しを覗き込みました。
「読めんが」
「読み上げます」
私は読み上げました。二度。
二度目のあと、村長が顔を上げました。
「……本当か」
「本当でございます」
私は言いました。
「ですから、村は今年の春から、丘を使えます」
◆
集会所が、静かになりました。
それから、後ろのほうで誰かが立ち上がりました。
「――二年、無駄にしたのか」
「そうなります」
私は言いました。
「申し訳ございません。当家が確かめておりませんでした」
「奥方のせいじゃない」
村長が言いました。
「二年前だ。あんたはまだ、ここにいなかった」
彼は卓を指で叩きました。
「それより、聞きたいことがある。使えないと、誰が言ったんだ」
私は、それを尋ねに来たのでした。
「覚えておいでですか」
村長は、しばらく考えました。
「……役人が来た」
彼は言いました。
「モーリスの役人だ。杭を打ち直したあとに来て、ここから先は子爵領だから入るなと」
「入るなと、はっきり」
「はっきり言った」
村長は言いました。
「羊を入れたら罰すると。うちの若いのが一度入って、追い返された」
私は、ゆっくりと息を吸いました。
「その役人の名は」
「覚えてない」
「何人で」
「三人か、四人」
「書面はございましたか」
村長は首を振りました。
「口で言われただけだ」
◆
「セヴェリン様」
私は振り返りました。
「妨害がございました。口頭でございますが、村の者が複数、聞いております」
「証拠になるか」
「証言は、証拠になります」
私は言いました。
「複数の者が同じ内容を述べれば、なお強うございます」
私は村長に向き直りました。
「村長。追い返された若い方の名を、教えていただけますか」
「テオだ」
私は、動きを止めました。
「テオさんが」
「一昨年の秋だ」
村長は言いました。
「羊を連れて丘に上がって、追い払われて帰ってきた。しばらく、腐ってた」
集会所の隅で、テオが立っていました。
私が見ると、彼は少し目を逸らしました。
「……言いませんでした。恥ずかしかったんで」
「恥ずかしいことではございません」
私は言いました。
「あなたには、そこにいる権利がございました」
テオが、顔を上げました。
「――俺、追い返されたとき、何も言えなかったんです」
彼は言いました。
「向こうが紙を持ってて。ここは子爵領だって書いてあるって言われて。読めないから、そうなのかと思って」
私は、しばらく言葉を探しました。
「テオさん」
「はい」
「その紙が何だったのか、今なら分かります」
私は言いました。
「境界誓約でございます。丘の所有が移ったことは、確かに書いてございます。ですが、放牧権については、一言も書かれておりません」
私は言いました。
「書いていないことを、書いてあるように言われたのです」




