第二十八話 乙の欄
その夜、私は砦の一室で、受領書の写しを作りました。
原本は持ち帰ります。写しは砦に残し、砦長のガレンに保管を頼むつもりでした。原本を失えば、こちらには何も証明できるものがなくなります。
書き写しながら、条文を何度も読み返しました。
七行のうち、三行が定型。四行が挿入です。挿入部分だけ、句読の打ち方が違いました。
甲は、乙の、という位置に読点。二か所。
境界誓約と同じ癖でした。
「――同じ書き手でございます」
私は顔を上げました。
セヴェリン様は、窓際に立って外を見ていました。窓の外は闇で、雪の照り返しだけがぼんやりと白い。
「境界誓約と、この受領書と、私の婚姻誓約書」
私は言いました。
「三通とも、同じ癖がございます」
「ヴェルナーか」
「あるいは、ラウル・ディンゲンか」
私は言いました。
「同期の二人でございます。癖が似ていても、おかしくございません」
「どちらだ」
「分かりません」
私は言いました。
「ただ、この受領書を砦に持ち込めたのは、モーリス家の側にいた人間です。援兵の書類に紛れておりましたので」
「ディンゲンか」
「可能性は高うございます」
私は言いました。
「ただし、ヴェルナーさんが当時どこにいたかも、まだ分かっておりません」
◆
翌朝、私はガレンに尋ねました。
「二年前の夏、モーリス家の兵が入っておりましたね」
「入っておりました。五十と、追加の二十」
「兵以外に、文官のような方は」
砦長は、少し考えました。
「おりました。書類を扱う者が、一人」
「名は」
「――確か、ディンゲンと申しました」
私は、息を詰めました。
「その方は、どのような」
「四十ほどの、痩せた男でございます。物腰は丁寧で、こちらの書類仕事も手伝ってくれました」
ガレンは言いました。
「正直、助かりました。うちには読み書きのできる者が少のうございますので、受領書の類はほとんど任せておりました」
「任せておられた」
「はい。書いてもらって、辺境伯に署名していただく。その形で」
私は、ゆっくりと息を吐きました。
「ガレン殿。その方が書かれた書類は、すべてそのまま署名されましたか」
「はい」
砦長は、当然のように答えました。
「読める者が書いたものでございますので」
◆
「ガレン殿」
セヴェリン様が言いました。
「これを見てくれ」
彼は受領書を差し出しました。
砦長は受け取り、目を細めました。しばらく見て、それから顔を上げました。
「……申し訳ございません。読めるのは、上の三行までで」
「それでいい」
セヴェリン様は言いました。
「この紙を、覚えているか」
ガレンは、もう一度紙を見ました。
「覚えております」
「なぜ」
「長いからでございます」
砦長は言いました。
「受領書にしては長い、と思ったのを覚えております。ディンゲン殿に尋ねましたら、精算の取り決めを書いておくのだと」
「疑わなかったか」
「疑いませんでした」
ガレンは言いました。
「取り決めを書いておくというのは、ありがたいことだと思いましたので。後で揉めぬように、と申されました」
彼は紙を返し、それから、少し姿勢を正しました。
「――何か、悪いものでございましたか」
◆
セヴェリン様は、すぐには答えませんでした。
「ガレン」
「はい」
「お前の落ち度ではない」
「しかし」
「読める者がいなかった」
彼は言いました。
「それは、私の落ち度だ」
砦長は、何か言おうとして、口をつぐみました。
私は、二人のあいだに口を挟みませんでした。
「ガレン殿」
しばらくして、私は言いました。
「一つ、お願いがございます」
「なんなりと」
「この受領書の写しを、砦に保管していただけますでしょうか」
私は写しを差し出しました。
「原本は持ち帰ります。ただ、原本だけでは心許のうございます。写しを、砦の書庫に」
「承知いたしました」
「それと、もう一つ」
私は言いました。
「今後、砦で扱われる書類のうち、術式署名を要するものは、必ず私か、当家の読める者が目を通してからにしていただけますか」
ガレンは深く頭を下げました。
「そのように、いたします」
◆
帰路の馬車で、セヴェリン様は長いこと黙っていました。
雪の道を、馬が一歩ずつ進んでいきます。
「――ヴィオラ」
「はい」
「あの紙は、私が署名しなければ成立しなかった」
「はい」
「私が読めていれば、署名しなかった」
「そうかもしれません」
私は言いました。
「ただ、読めていても、署名なさったかもしれません」
彼が、こちらを見ました。
「なぜ」
「戦のさなかでございます」
私は言いました。
「援兵を受けている最中に、相手方の出した受領書を突き返せますでしょうか。精算の条文が不利だからと言って」
セヴェリン様は、答えませんでした。
「読めるということは、断れるということではございません」
私は言いました。
「読めても断れない場面は、いくらでもございます。私も、実家で何度もございました」
「では、読む意味は」
「後で使えます」
私は言いました。
「そのときは飲むしかなくても、条文を覚えておけば、後で別の条文を当てられます。読めなければ、そもそも当てるものが分かりません」
◆
「今回は、当てられるか」
セヴェリン様が言いました。
「当てられます」
私は言いました。
「乙の欄が空白でございます。ここに、大きな穴がございます」
「穴」
「片務誓約は、相手方が事前に承諾していることが前提でございます」
私は言いました。
「ですが、この紙には乙の署名がございません。乙が誰かも書かれておりません。つまり――誰も、事前に承諾しておりません」
「では、無効か」
「無効ではございません」
私は言いました。
「甲の義務だけが書かれておりますので、甲の署名で成立いたします。ただ、乙が特定されていない誓約の履行を、誰が請求できるのか。そこが決まっておりません」
「決まっていなければ」
「請求する者が、自分が乙であることを証明せねばなりません」
私は言いました。
「モーリス子爵家が請求するなら、あの援兵が子爵家のものであったこと、そして精算の権利が子爵家にあることを、示す必要がございます」
「示せるだろう。援兵の要請書と受領書が四枚ある」
「示せます」
私は認めました。
「ですから、こちらから先に動きます」
◆
「先に動く」
「はい」
私は言いました。
「来年の九月二日までに精算が行われなければ、代償が確定いたします。ですから、こちらから精算を申し出ます」
「向こうの言い値になるぞ」
「なりません」
私は言いました。
「乙が特定されていない以上、甲は誰に払えばよいか分かりません。分からないまま期限を迎えるのは、甲の責任ではございません」
私は、膝の上で指を組みました。
「施行細則に、供託の規定がございます。債権者が特定できない場合、甲は管理院に相当額を供託することで、履行したものとみなされます」
セヴェリン様が、こちらを見ました。
「相当額とは」
「援兵五十と二十、糧秣二十荷。市場の相場で算定できます」
私は言いました。
「その額を供託すれば、精算は済みます。乙が後から名乗り出ても、供託金を受け取るだけでございます。上限のない請求は、できなくなります」
馬車が、雪を踏んで揺れました。
「――それで、紋は消えるか」
「消えると思います」
私は言いました。
「履行が済めば、履行待ちの紋は消えます」
セヴェリン様は、左手を見下ろしました。手袋をした手です。
「春まで待つのか」
「待ちます」
私は言いました。
「供託には管理院への出頭が要ります。街道が開いてからでございます」
私はそう言って、それから、もう一つ考えていたことを口に出しました。
「セヴェリン様。この受領書を書いた者は、期限を書きませんでした」
「書き忘れたのか」
「いいえ」
私は言いました。
「期限を書けば、期限までに請求せねばなりません。書かなければ、三年の法定期限が働きます。三年待てば、自動的に代償が降ります」
「請求しなくても、罰だけが降りるのか」
「降ります」
私は言いました。
「あの紙を書いた者は、精算を求めていないのかもしれません」




