第二十七話 北の砦へ
北の砦までは、馬で二日でした。
雪はありますが、街道ほど深くありません。砦へ続く道は軍用のため、冬でも通れるように踏み固められています。
「本当に行くのか」
出立の朝、セヴェリン様が言いました。
「私一人でもいい」
「読める者が要ります」
私は言いました。
「二年前の書類が残っていれば、その場で確かめねばなりません。持ち帰っていては、時間がかかります」
「雪の中を、二日だ」
「歩きません。馬車がございます」
私は外套の襟を立てました。
「それに、私は寒さに強うございます。実家の書斎に、暖炉がございませんでしたので」
セヴェリン様が、何か言いかけて、やめました。
◆
砦は、山の鞍部に据えられた石の建物でした。
思っていたより小さく、思っていたより古い。城壁は継ぎ接ぎだらけで、補修の跡が層になっています。
「五十人ほどが常駐している」
セヴェリン様が言いました。
「戦のときは、二百まで入る」
門で、兵が槍を上げました。
「辺境伯! お戻りで!」
「通る」
砦の中は、外より暖かいくらいでした。石壁が風を完全に遮り、廊下の要所に火桶が置かれています。
砦長は、白髪混じりの実直そうな男でした。ガレンという名です。
「二年前の書類でございますか」
私が用件を伝えると、彼は難しい顔をしました。
「残っておるかどうか。戦のあとは、だいぶ処分いたしましたので」
「処分の基準は」
「三年でございます」
ガレンは言いました。
「軍の定めで、三年保存。三年を過ぎたものは焼きます」
私は少し、肩の力を抜きました。
「では、二年前の分はまだございますね」
「あるはずでございます。ただ」
砦長は言いにくそうにしました。
「――積んであるだけでございまして」
◆
書庫は、砦の地下にありました。
石の部屋に、木箱が積み上がっています。数えると、三十七箱。
「これが、三年分でございます」
ガレンが言いました。
「分類は」
「箱に年は書いてございます。それ以上は、何も」
私は一番手前の箱を開けました。
紙が詰まっています。折られたもの、丸められたもの、束ねられたもの。日付も種類もばらばらでした。
「セヴェリン様」
「見ている」
彼が、私の後ろで言いました。
「これを、全部読むのか」
「読みます」
私は言いました。
「ただし、全部ではございません。探すのは、術式署名の入った紙だけです」
「見分けがつくのか」
「つきます」
私は一枚取り出しました。
「術式署名は、普通の署名と形が違います。筆の入り方が違うのです。紙を広げれば、見た瞬間に分かります」
◆
二年前の箱は、十二ありました。
私とセヴェリン様と、砦の書記を務めている若い兵の三人で、手分けしました。私が中身を見て、術式署名のあるものだけを別の山に移します。
「奥様。これは」
若い兵が、一枚差し出しました。
「それは普通の署名でございます。受領印の代わりですね」
「こっちは」
「それも違います」
「どう違うんですか」
私は二枚を並べました。
「線の始まりを見てください。術式署名は、筆を置いた瞬間に一度沈みます。魔力を通しますので、墨が濃くなるのです。普通の署名は、そうなりません」
兵は目を近づけました。
「……あ。濃い」
「はい」
「覚えました」
三人になってからは、早くなりました。
◆
丸一日かかりました。
十二箱から、術式署名のある紙が四十三枚。
そのうち、セヴェリン様の署名があるものが、二十九枚でした。
「二十九か」
彼が言いました。
「思ったより少ないな」
「多くは普通の署名で済ませておられます」
私は言いました。
「術式署名を使うのは、重い書類だけです。兵糧の受領、援兵の要請、損害の報告。そのあたりかと」
私は二十九枚を、日付順に並べました。
二年前の六月から、九月まで。
一枚ずつ、条文を読んでいきます。
兵糧の受領書が九枚。物資の受領が七枚。人員の配置命令が五枚。負傷者の報告が三枚。そして、援兵の要請と、その受領が四枚。
「――モーリス家のものがございます」
私は言いました。
「援兵の要請と受領、四枚とも、相手はモーリス子爵家でございます」
セヴェリン様が、身を乗り出しました。
「借りた分だ」
「はい」
私は一枚目を読みました。
「七月の三日。ガルドウィン辺境伯領は、モーリス子爵領に対し、兵五十名および糧秣の貸与を要請する。要請書でございます」
「二枚目は」
「同月十日。受領書でございます。兵五十名、糧秣二十荷を受領した」
「三枚目」
「八月の一日。追加の要請。兵二十名」
「四枚目」
「同月の九日。受領書」
私は四枚を並べました。
「いずれも定型でございます。対価の記載はございません」
◆
「対価がないのか」
セヴェリン様が言いました。
「援兵の貸借は、後日精算が通例でございます」
私は言いました。
「その場では数量だけを記録し、精算は別途。ですから、この四枚に対価がないのは、おかしくございません」
「では、精算の書類が別にあるはずだな」
「ございます」
私は残りの紙を示しました。
「ただし、この二十九枚の中にはございません」
私は二十九枚を、もう一度めくりました。
そして、十七枚目で手を止めました。
「セヴェリン様」
「なんだ」
「これを、ご覧ください」
◆
九月の二日付。表題は『物資受領書』でした。
定型の書式です。冒頭に受領する物資の名と数量。中ほどに受領の確認文。末尾に署名欄。
ただ、中ほどが長い。
普通の受領書であれば、確認文は二行です。この紙は、七行ありました。
「読みます」
私は言いました。
「一行目から三行目まで、定型の受領確認でございます。四行目から――」
私は指で追いました。
「『なお、本受領に係る一切の精算につき、甲は乙の定める方法によるものとし、精算の方法および時期については、乙がこれを定める』」
セヴェリン様が、眉を寄せました。
「乙が定める」
「はい」
私は続けました。
「『甲は、前項の定めに従い、乙の請求ある場合には、これに応じるものとする』」
「甲は誰だ」
「ガルドウィン辺境伯でございます」
私は署名欄を示しました。
「乙は」
「――書いてございません」
◆
私は紙を灯りに近づけました。
署名欄は、二つあります。甲の欄に、セヴェリン様の術式署名。
乙の欄は、空白でした。
「白紙でございます」
私は言いました。
「甲だけが署名しております」
「では、成立していないな」
「片務誓約でございます」
私は言いました。
「先日、申し上げた形です。一方の署名だけで効力を生じる条文。この紙は、その形になっております」
セヴェリン様が、紙を覗き込みました。
「私は、これに名を書いたのか」
「書いておられます」
私は言いました。
「二年前の九月二日。物資受領書として、差し出されたのだと思います」
「読まなかった」
「読める者が、おられませんでした」
私は言いました。
◆
「――この紙は、何を私に負わせている」
セヴェリン様が言いました。
声が、低くなっていました。
「精算の方法と時期を、乙が決めます」
私は言いました。
「乙が何を請求しても、甲は応じねばなりません。金額の上限が書かれておりません」
「上限が」
「ございません」
私は言いました。
「そして、乙の欄が空白であるということは――今からでも、誰かが名を入れれば、その者が乙になります」
石の書庫が、静かになりました。
火桶の炭が、小さく爆ぜました。
「履行待ちの紋は、これでございます」
私は言いました。
「精算が済んでおりません。ですから、履行待ちのまま、二年間残っております」
「期限は」
私は、七行目を読みました。
そして、指を止めました。
「――期限は、書かれておりません」
「では、いつまでも待つのか」
「いいえ」
私は言いました。
「施行細則の規定がございます。期限の定めのない誓約は、成立から三年をもって履行期が到来する」
私は顔を上げました。
「二年前の九月二日から、三年でございます」
セヴェリン様が、こちらを見ました。
「来年の九月か」
「来年の九月二日でございます」
私は言いました。
「その日までに精算が行われなければ、代償が確定いたします」




