第二十四話 答えの速さ
ヴェルナーが来たのは、十月の六日でした。
前回より薄い鞄を提げ、前回と同じ灰色の上着を着ています。玄関で外套を脱ぐとき、肩に雪が少し乗っていました。山のほうでは、もう降り始めているようです。
「お約束のものを、お持ちいたしました」
応接間で、彼は鞄から紙の束を出しました。麻紐でくくられています。
「十二通でございます。ご確認を」
私は紐を解きました。
セヴェリン様は隣の椅子に座り、黙って見ています。今日は私が話すことになっていました。
一通ずつ、めくっていきます。
小作契約が三通。商会との取引誓約が四通。境界に関するものが二通。相続関係が二通。そして――
婚姻誓約書が、一通。
十八年前のものではありません。見覚えのない家名でした。
「十二通ございます」
私は言いました。
「控えは、お持ちでしょうか」
「これでございます」
ヴェルナーは帳面を出しました。二年前の日付で、十二通の表題が並んでいます。私は一つずつ突き合わせました。
合っています。過不足はありません。
「――草案は、ございませんでしたか」
「ございませんでした」
彼は言いました。
「控えを見返しましたが、署名前のものは一通も持ち出しておりません」
答えは、速いものでした。
◆
「ヴェルナーさん」
私は帳面を返しました。
「いくつか、伺ってもよろしいでしょうか」
「なんなりと」
「二年前、書斎の整理にはどれくらいかかりましたか」
「十二日でございます」
即答でした。
「一日にどれくらい」
「朝から夕までで、五十通ほど。ただ、分類だけでしたら、もっと早うございます」
「全部で何通ほどございましたか」
「六百を少し超えておりました」
「分類は、どのように」
「誓約書、帳簿、私信、その他。四つに分け、誓約書はさらに種類ごとに」
「種類とは」
「土地、商取引、婚姻、相続、その他でございます」
私は頷きました。
ここまで、すべて速い。
「相続の束に、婚姻誓約書が一通、混ざっておりました」
私は言いました。
ヴェルナーの手が、膝の上で、わずかに動きました。
「――さようでございますか」
「はい。十八年前のものでございます」
「それは、失礼を」
彼は言いました。
「六百通ございましたので、混ざったものもあったかと存じます」
一拍、遅れました。
◆
私は、話題を変えました。
「私の婚姻誓約書は、あなたがお書きになったそうですね」
「はい」
速い答えでした。
「アシュフィールド伯爵より、ご依頼をいただきました。今年の春でございます」
「報酬は」
「銀貨で八枚」
「相場ですね」
「相場でございます」
私は続けました。
「条文は、どのように決められましたか」
「伯爵のご指示に従いました」
「指示の内容は」
「期限を三年とすること。持参金を低く抑えること。それと」
彼は少し、言いよどみました。
「実家への請求ができぬようにすること、と」
「請求ができぬように」
「はい」
「ですが、第七条は放棄ではございません」
私は言いました。
「婚姻の期間中、主張しない、と書かれております」
ヴェルナーは、こちらを見ました。
穏やかな目でした。
「――お気づきでしたか」
「はい」
「よろしゅうございました」
彼は言いました。
「気づかれぬまま三年が過ぎることも、覚悟しておりましたので」
◆
私は、膝の上で手を組みました。
「なぜ、放棄と書かれなかったのですか」
ヴェルナーは、しばらく黙っていました。
答えが、遅い。
初めて、はっきりと遅れました。
「……書き手にも、好みがございます」
やがて、彼は言いました。
「私は、消えてしまう条文が好きではございません」
「好み、でございますか」
「言い訳でございますな」
彼は少し笑いました。
「伯爵は、条文の違いを読まれません。放棄と書いても、主張しないと書いても、同じ銀貨八枚でございます。ならば、後で取り返せるほうを書いておく。それだけのことでして」
「誰のために」
「――さあ」
ヴェルナーは、視線を落としました。
「そのときは、どなたに嫁がれるかも存じませんでした。私が存じておりましたのは、書斎で誓約書を読んでいるお嬢様がいる、ということだけでございます」
私は、息を詰めました。
「ご存じだったのですか」
「存じておりました」
彼は言いました。
「伯爵家へ書式を届けに参りましたとき、書斎に灯りがございました。夜でございます。伯爵は、娘が片付けていると仰せでした」
「お会いになったことは」
「ございません」
ヴェルナーは言いました。
「ただ、灯りの数を覚えております。机の上に三つ。あれは、細かい字を長く読む者の灯りでございます」
◆
応接間が、静かになりました。
セヴェリン様が、初めて口を開きました。
「ヴェルナー殿」
「はい」
「あなたは、なぜ登録しなかった」
答えが、止まりました。
三拍ほどでした。
「……要件を、欠いておりましたので」
「いずれの家にも属さぬ者、か」
「はい」
「今も属しているのか」
「今は、属しておりません」
ヴェルナーは言いました。
「家が、なくなりましたので」
セヴェリン様が、何か言おうとして、やめました。
「では、今からでも登録できるのではないか」
「四十五でございます」
彼は言いました。
「試験は、若い者のものでございます。それに――今さら、名を残す必要もございません」
私は、その言い方を頭の隅に置きました。
名を残す必要がない。登録できないのではなく、しない、と言っています。
◆
「ヴェルナーさん。もう一つだけ」
「はい」
「二年前の八月に、当家は私的誓約を三件、管理院に登録しております」
彼の指が、鞄の留め金の上で止まりました。
「先代様のご登録でしょうか」
「はい。相手方は非公開でございます」
「――存じません」
答えは、速いものでした。
速すぎました。
これまでの彼は、知らないことを聞かれると、少し考える間を置きました。書斎の通数のときも、分類の仕方のときも、思い出す時間がありました。
今の「存じません」には、思い出す時間がありませんでした。
「そうですか」
私は頷きました。
「では、本日は十二通の返却、ありがとうございました」
「とんでもございません。遅くなりました」
彼は立ち上がり、礼をしました。
扉のところで、一度振り返りました。
「奥様」
「はい」
「北の丘の件、掲示のあと、いかがでございますか」
「協議を持ちました」
私は言いました。
「次回は、草案が見つかってからと」
「見つかるとよろしゅうございますな」
彼はそう言って、礼をして、出ていきました。
◆
扉が閉まってから、私はしばらく動きませんでした。
「どうだ」
セヴェリン様が言いました。
「三か所、答えが遅れました」
私は言いました。
「一つ。相続の束に婚姻誓約書が混ざっていたと申し上げたとき。一拍」
「二つめは」
「なぜ放棄と書かなかったか、と伺ったとき。かなり長い間がございました」
「あれは、答えにくい質問だ」
「はい。ですから、遅れて当然でございます」
私は言いました。
「三つめが、登録しなかった理由です。三拍ほど止まりました」
「私が聞いたときか」
「はい」
私は言いました。
「そして、速すぎた答えが一つ」
「私的誓約か」
「はい」
私は言いました。
「あの方は、知らないことを聞かれると、必ず思い出す間を置かれます。書斎の通数も、分類の仕方も、十二日という日数も。すべて一度、記憶を辿る間がございました」
「私的誓約には、それがなかった」
「ございませんでした」
私は言いました。
「用意された答えです。聞かれると思っていて、答えを決めておられた」
セヴェリン様が、長く息を吐きました。
「知っているな」
「知っておられます」
私は言いました。
「ただ、それだけです。知っていることと、関わっていることは、別でございます」
「庇うのか」
「庇いません」
私は言いました。
「ただ、あの方は、私の第七条を変えた人でもございます。それも事実です」
窓の外を、雪が舞い始めていました。
「――厄介だな」
セヴェリン様が言いました。
「はい」
私は言いました。
「敵だと決めれば、簡単でございます。決めてしまえば、その目でしか読めなくなります」




