第二十三話 十八年の距離
一行の返書を、私は何度も読み返しました。
『起草者は、ヴェルナーという者である』
それだけです。名以外に、何も書かれていません。どこで頼んだのか、いくら払ったのか、他に何を書かせたのか。父はそのどれも書きませんでした。
書かなかったのではなく、覚えていないのだと思います。父は、誰に書かせたかを気にする人ではありません。安く、早く、体裁が整っていればそれでよい。十年間、私に書かせ続けたのも、同じ理由でした。
「セヴェリン様」
「見た」
彼はもう読んでいました。私が執務室に入ったときには、机の上に返書が置かれていました。
「ヴェルナーが、君の婚姻誓約書を書いた」
「はい」
「そして、二年前に父の書斎を整理した」
「その際に、十八年前の婚姻誓約書も目にしたはずです」
私は言いました。
「書斎にございましたので。分類の作業をしたのであれば、必ず手に取っております。相続関係の束に混ざっておりましたので、婚姻誓約書として分けられていないということは――むしろ、分けなかったということかもしれません」
「分けないと、どうなる」
「探しにくくなります」
私は言いました。
「私も、相続の束を最後に片付けなければ、あの一通に行き当たりませんでした」
セヴェリン様が、少し目を細めました。
「隠したということか」
「断定はいたしません」
私は言いました。
「ただ、書類屋が分類を誤るのは、不自然です」
◆
「では、第七条を写したのか」
「写したか、あるいは」
私は言葉を選びました。
「もともと、あの条文を書いたのがヴェルナーだった場合です」
「十八年前だぞ」
セヴェリン様が言いました。
「あの男は四十半ばだ。当時、二十六、七になる」
「管理院の受験記録が、二十二年前でございました」
私は言いました。
「第二次試験まで進んで辞退。当時、二十前後かと。十八年前であれば、辞退から四年後です」
「その年で書けるか」
「書けます」
私は言いました。
「学科を通っている者であれば、婚姻誓約書の一通くらいは書けます。定型が五条ございますので、実際に考えて書くのは六条ほどです」
「腕のある者が書く仕事ではないと」
「腕のない者には書けません」
私は少し言い直しました。
「ただ、腕のある者が誇る仕事でもございません。婚姻誓約書は、数のある仕事です。安く請ける者のところへ流れます」
セヴェリン様が、椅子に深く座りました。
「では、叔父の婚姻誓約書も、あの男が」
「可能性がございます」
私は言いました。
「ただ、もう一つの可能性もございます」
「なんだ」
「アデル様ご自身が書かれた場合です」
執務室が、静かになりました。
窓の外で、風が鳴っています。九月の終わりの風です。この土地は秋が短く、来月には雪の話が出ると、バルトが言っていました。
「自分の婚姻誓約書を、自分で」
「あり得ないことではありません」
私は言いました。
「アデル様は、十年間この家の誓約書を一手に引き受けておられました。ご自身の婚姻誓約書も、その一通だったのかもしれません」
「自分で自分の請求権を放棄する条文を書いたと」
「書かされた、ということもございます」
私は言いました。
「起草を命じられれば、書きます。読める者が一人しかいない家では、読める者が自分に不利な条文を書くことになります。他に書ける人間がおりませんので」
セヴェリン様は、しばらく黙っていました。
やがて、彼はこちらを見ました。
「――君も、書いたか」
私は少し、答えるのが遅れました。
「書きました」
「自分に不利な条文を」
「はい」
私は言いました。
「実家におりました頃、父に命じられて、何度か」
「嫌だとは言えなかったか」
「言えました」
私は言いました。
「言えましたが、言ったところで、別の者が書くだけでした。別の者が書けば、もっと不利なものが出来上がります。私が書けば、せめて抜け道を残せます」
「抜け道を残したのか」
「残しました。二度ほど」
私は言いました。
「一度は、期限を入れました。父は期限の意味を分かっておりませんでしたので、そのまま通りました。もう一度は、主語を落としました」
セヴェリン様の指が、机の上で止まりました。
「主語を」
「はい」
私は自分でも、そのことに今まで思い至らなかったのが不思議でした。
「境界誓約の第六条と、同じ手でございます」
◆
「――同じ手を、君も使うのか」
「使います」
私は言いました。
「読み手が自分を守るときに、最も使いやすい手です。嘘を書かずに、結果だけを変えられますので」
「では、境界誓約を書いた者も」
「自分を守っていたのかもしれません」
私は言いました。
「あるいは、誰かを守っていたのかもしれません。第六条の主語落ちは、当家に不利に働きます。ですから、書いた者はモーリス家の側にいたと読むのが自然です。ですが」
私は少し、間を置きました。
「主語を落とすというのは、後で読み返されたときに気づかれる手でもあります。完全に隠したいのであれば、はっきり書くのです。『甲は異議を申し立てない』と」
「はっきり書けば、気づかれないのか」
「気づかれます。ただ、争えません」
私は言いました。
「書いてあることは、争えません。書いていないことは、解釈で争えます。主語を落とすというのは、争う余地を残す書き方でございます」
セヴェリン様が、ゆっくりと身を起こしました。
「――残した、と」
「そう読むこともできます」
私は言いました。
「私には、まだ分かりません。書いた者に悪意があったのか、それとも精一杯の抵抗だったのか。条文の形だけでは、そこまでは読めません」
◆
「では、君の第七条はどうだ」
セヴェリン様が言いました。
「十八年前は放棄で、今年は主張しない、だったな」
「はい」
私は二通の写しを並べました。
「放棄であれば、権利は消えます。主張しない、であれば、権利は残ります。残ったまま、主張を控えるだけです」
「意味が違うのか」
「まったく違います」
私は言いました。
「そして、婚姻の期間中、という限定まで付いております。父の利益だけを考えるなら、この限定は要りません。永久に、と書けばよいのです」
「書かなかった」
「書きませんでした」
私は言いました。
「父は、その違いを読めません。読めないものを利用して、書いた者が何かを残した。そう考えるのが、一番筋が通ります」
セヴェリン様は、二通を交互に見ていました。
「叔父の分には、残っていないな」
「残っておりません」
私は言いました。
「アデル様の請求権は、消えております。十年分が、婚姻の日に消えました」
「――十八年の距離だな」
彼が言いました。
「同じ書き手だとすれば」
「はい」
私は言いました。
「十八年前は、放棄させる側にいた。今年は、放棄させない道を残した。何かが変わったことになります」
「変えた理由は」
「分かりません」
私は言いました。
「ただ、聞ける相手が、来月ここへ参ります」
◆
その日の午後、私は照会の書状を三通、用意しました。
一通目は管理院宛。ヴェルナーの受験記録について、辞退の年月日の確認です。記録の詳細は開示されませんが、日付だけであれば照会に応じる規定が、施行細則の第百三十一条にありました。
二通目はルーヴェ男爵家宛。アデル様の妻となった方の、その後の消息について。婚姻誓約書の写しを当家が保管しているため、その返却の要否を確認したい、という名目にしました。実際、返却の規定はありますので、虚偽ではありません。
三通目は、読み手の名簿を管理する部署宛。二十二年前の受験者のうち、現在も登録が生きている者の名簿請求です。名簿そのものは公開されています。
「三通とも、時間がかかります」
私は言いました。
「早くて往復十二日。名簿は、部署をまたぎますので、ひと月近くかかるかもしれません」
「待つしかないな」
「はい。ただ、ヴェルナーのほうが先に参ります」
「照会の返答より先に、本人が来るか」
「そうなります」
私は言いました。
「ですから、返答を待たずに、直接伺うことになります」
「何を聞く」
私は少し、考えました。
「まず、私の婚姻誓約書を書いたのがご自身であるかどうか」
「認めるか」
「認めると思います」
私は言いました。
「あの方は、十二通を持ち出したことも、あっさり認められました。隠す必要のないことは、隠されません。婚姻誓約書の起草は、隠す必要のないことです。仕事ですので」
「隠す必要のあることは」
「隠されます」
私は言いました。
「ですから、隠されている場所が分かるように聞きます」
「どうやって」
「隠す必要のないことを、たくさん伺います」
私は言いました。
「答えの速さが変わる場所が、隠されている場所です」
セヴェリン様が、しばらく私を見ていました。
「――君は、人を疑うのが上手いな」
「疑っておりません」
私は言いました。
「答えの速さを数えるだけです。甲と乙を数えるのと、同じことでございます」
◆
その夜、私は自室で二通の写しを並べていました。
十八年前と、今年。同じ骨格。同じ句読。違う一語。
放棄する、と、主張しない。
私は指で、その一語をなぞりました。触れると、紙が少し冷たい。
十八年前、アデル様は請求権を永久に失いました。そして二年後、家を出ました。奥様と二人で、ある朝発って、それきりです。
今年、私は婚姻の期間中だけ、主張を控えることになりました。三年後、期限が来ます。
二人のあいだに、十八年あります。
私はペンを取り、紙の端に一行書きました。
『十八年前の誓約書を書いた者は、放棄させる側にいた』
もう一行、書き足しました。
『今年の誓約書を書いた者は、放棄させない道を残した』
同じ人であれば、変わったことになります。
別の人であれば、後の者が前の者を知っていて、意図的に変えたことになります。
どちらにせよ、私の第七条には、父ではない誰かの判断が入っています。
私はペンを置きました。
三年後に主張できる権利が、私の手元に残っている。
嫁いでくる日、あの条文を読んだとき、私はただ「限定が付いている」と思っただけでした。父の詰めの甘さだと思っていました。
そうではなかったのかもしれません。
来月、その一語を書いた人に会います。
聞くべきことは、一つだけです。
なぜ、変えたのか。
そしてもう一つ、聞いてはいけないことも、決めておく必要がありました。アデル様の名です。あの名を出した瞬間、相手の答えの速さが変わる。変わってしまえば、そこから先は何も聞けなくなります。
私は灯りを消し、暗い天井を見上げました。
雪が降る前に、あの方は来ます。




