第二十一話 弟の名
私は、その婚姻誓約書を三度読みました。
十八年前、秋。ガルドウィン辺境伯家の次男と、ルーヴェ男爵家の長女との婚姻。全十一条。書式は整っており、不備はありません。
花婿の名は、アデル・ガルドウィン。
署名欄の脇にある略式署名を、私は指でなぞりました。触れはしません。形を目で追うだけです。
覚書のもの。帳簿の欄外のもの。モーリス家の正本のもの。そして、これ。
四つとも同じ形でした。
けれど、この誓約書は十八年前のものです。先代様の弟が署名した紙です。
――先代様の印ではない。
私はそう考えて、それから、もう一度考え直しました。
十八年前の婚姻誓約書に、なぜ略式署名が入っているのでしょうか。
婚姻は、本署名で成立しています。予約は要りません。
◆
「アデル」
セヴェリン様は、その名を口の中で繰り返しました。
「叔父にあたる」
「覚えておいでですか」
「ほとんど」
彼は言いました。
「幼い頃に、何度か。背の高い人だったと思う。それだけだ」
「家を出られたのは、婚姻の二年後だそうです」
「バルトがそう言ったか」
「消息を知らない、とだけ」
私は婚姻誓約書を机に置きました。
「この紙に、略式署名がございます」
セヴェリン様が、身を乗り出しました。
「同じものか」
「同じ形です」
私は言いました。
「覚書、帳簿、モーリス家の正本、そしてこれ。四つとも」
「父の印ではないのか」
「そうとは限らなくなりました」
私は言いました。
「十八年前、この紙に印を入れられる立場にいたのは、花婿であるアデル様か、立会人です。先代様が立会人であれば、先代様の印でもあり得ます。ですが」
私は立会人の欄を示しました。
「立会人は、ルーヴェ男爵です。先代様の名はどこにもございません」
執務室が、静かになりました。
「――叔父の印か」
「その可能性が高うございます」
私は言いました。
「そして、もしそうであれば、覚書と帳簿とモーリス家の正本にある印も、すべてアデル様のものということになります」
セヴェリン様が、椅子の背を掴みました。
「二年前に、叔父が屋敷にいたと」
「いたか、あるいは」
私は言葉を選びました。
「書類だけが、アデル様のもとを通ったか」
◆
「バルトさん」
家令を呼び、私は改めて尋ねました。
「アデル様が家を出られた経緯を、ご存じの範囲で教えていただけますか」
バルトは、しばらく黙っていました。
「……旦那様の前で、よろしいのでしょうか」
「話せ」
セヴェリン様が言いました。
「私も知らん」
家令は、深く息を吸いました。
「アデル様は、誓約術を学んでおられました」
私は顔を上げました。
「王都の管理院で」
「はい。若い頃、数年ほど。たいそう優秀であったと聞いております」
「登録は」
「なさいませんでした」
バルトは言いました。
「次男でございましたが、当時、先代様にはお子がおられませんでした。相続権が残っておりましたので、要件を満たさなかったと」
私は息を詰めました。
いずれの家にも属さぬ者であること。
相続権を持つ者は、登録できません。
「アデル様は、家に戻られたのですか」
「戻られました。そして、家の誓約書を一手に引き受けておられました」
家令は言いました。
「十年ほど。先代様は、書類をすべてアデル様に任せておられました」
◆
私は、自分の指が冷たくなるのを感じました。
家に戻った次男。管理院で学んだが登録できない。家の誓約書を一手に引き受ける。
私が十年やってきたことと、同じ形でした。
「婚姻なさったのが、十八年前」
「はい」
「その二年後に、家を出られた」
「そのように記憶しております」
バルトは言いました。
「セヴェリン様がお生まれになったのが、二十年前でございます」
私は顔を上げました。
セヴェリン様が、こちらを見ていました。
「――私が生まれて」
彼が、低く言いました。
「相続権が、動いた」
◆
長男が生まれれば、次男の相続権は後退します。
完全に消えるわけではありません。ただ、順位が下がります。
「バルトさん。アデル様が家を出られた頃、何か揉め事はございましたか」
「存じません」
家令は言いました。
「ある朝、お発ちになったと聞かされただけでございます。奥方様も、ご一緒に」
「奥様も」
「はい。ルーヴェ男爵家のご息女でございましたが、その後、ご実家にも戻られなかったと」
私は婚姻誓約書に、視線を落としました。
十一条の最後を読み直します。
第十一条。婚姻の解消に関する規定。通常の定型でした。
私はもう一度、第一条から追いました。
そして、第七条で指が止まりました。
『花婿は、婚姻の成立をもって、ガルドウィン辺境伯家に対する一切の請求権を放棄する』
◆
「セヴェリン様」
私は声が掠れるのを感じました。
「これを、ご覧ください」
彼が覗き込みました。
「請求権の放棄」
「はい」
私は言いました。
「婚姻誓約書に入れる条文ではございません。婚姻と請求権は、別のものです」
「意味は」
「アデル様は、婚姻と引き換えに、家に対する請求を放棄させられました」
私は言いました。
「十年間、誓約書を一手に引き受けた分の対価です。読み手として登録できないまま働いていた分の」
セヴェリン様の顔から、表情が抜けました。
私は、婚姻誓約書の写しを机に置き、その隣に、もう一通を並べました。
自分の婚姻誓約書の写しです。
第七条。
『花嫁は、婚姻の期間中、実家に対する一切の債権を主張しない』
二つの条文が、並びました。
十八年前と、今年。別の家、別の人間。
けれど、同じ形でした。
「――同じだな」
セヴェリン様が言いました。
「同じです」
私は言いました。
「ただ、一つだけ違います」
「なんだ」
「アデル様は、放棄です。永久に消えます」
私は自分の写しを指しました。
「私のほうは、主張しない、です。婚姻の期間中、と限定されております」
私は指で、その一句をなぞりました。
「期間が終われば、主張できます」
セヴェリン様が、こちらを見ました。
「三年後」
「三年後です」
私は言いました。
「父は、おそらく気づいておりません。書式を写しただけだと思います。どこかにあった古い条文を」
私は二通を並べ直しました。
「どこかに、というのは」
セヴェリン様が言いました。
「――この家にあった条文を、ということにならないか」
私は答えませんでした。
十八年前の婚姻誓約書。ガルドウィン家の書斎にあったもの。二年前、書類屋が持ち出した十二通。
そして、私の婚姻誓約書。父が用意した、書式だけは整っていた一通。
「セヴェリン様」
「なんだ」
「私の婚姻誓約書を、誰が起草したかを、確かめる必要がございます」




