第十九話 妹の名で届いた百通
王都から書状が届いたのは、協議の四日後でした。
アシュフィールド伯爵家の封蝋です。ハルヴァの筆跡ではなく、父の字でした。
『ヴィオラへ
先般の使者の件、返答を得た。読み手の雇用については検討中である。
ところで、当家の誓約書につき、管理院より照会が来た。届出名義に関する確認であるという。心当たりがあれば申し越せ』
三行でした。
私はその三行を、二度読みました。
「セヴェリン様。父から書状が参りました」
「読んでもいいか」
私は差し出しました。彼は目を通して、顔を上げました。
「管理院が、伯爵家に照会を出したのか」
「そのようでございます」
「君が出させたのか」
「いいえ」
私は言いました。
「私は何もしておりません。ハルヴァ殿に事実を申し上げただけです」
「では、なぜ」
「分かりません」
私は書状を受け取りました。
「ただ、時期が合います。使者が帰られてから、三週ほど。父かハルヴァ殿のどちらかが、管理院に確かめたのだと思います」
「確かめた」
「百通の届出が本当に問題になるのかどうかを」
私は言いました。
「そして、問い合わせたことで、管理院のほうが気づいたのでしょう」
◆
「藪蛇か」
セヴェリン様が言いました。
「そうなります」
私は少し、複雑な気持ちでいました。
「管理院は、問い合わせを受ければ記録を確認します。確認すれば、リナリーの名で百通が届け出られていることが見えます。見えれば、照会を出します。手続きとして、当然のことです」
「君は、それを予想していたか」
「――していたと思います」
私は正直に答えました。
「ハルヴァ殿に申し上げたとき、こうなる可能性は頭にありました。私からは何もしない、と申し上げました。実際、何もしておりません。ですが」
私は言葉を選びました。
「何もしなければ何も起きないと知っていて、相手が動けば何かが起きると知っていて、あのように申し上げました」
セヴェリン様は、しばらく私を見ていました。
「――それを、君は卑怯だと思っているのか」
「思っております」
私は言いました。
「条文としては、正しうございます。嘘は一つも申しておりません。ですが、正しさの使い方としては、あまり褒められたものではないと」
「妹君を、案じているか」
私は答えに詰まりました。
「……分かりません」
◆
その晩、私は自室で紙を広げました。
百通の届出について、整理しておく必要がありました。
管理院が照会を出したということは、届出名義人であるリナリーに説明を求めるということです。説明できなければ、届出は「名義人不明確」として扱われます。
無効にはなりません。ただ、条件が付きます。
施行細則の第九十条。届出に不備がある場合、当該誓約は当事者間では有効だが、第三者に対抗できない。
つまり――
小作契約であれば、小作人と伯爵家のあいだでは有効です。ですが、その土地を第三者に売ったり、担保に入れたりしたとき、小作人の権利を主張できません。逆に、伯爵家が小作人に何かを求めても、外部の後ろ盾がありません。
百通のうち、何通が動いている契約かは分かりませんが、四十件ほどの小作契約は毎年更新されます。更新のたびに、届出が要ります。
新しい届出には、読める者が要ります。
「――回らない」
私は口に出していました。
父は、読み手を雇わない限り、この先一通も届け出られません。雇えば費用がかかります。雇わなければ、契約が積み上がったまま、対抗できない状態で放置されます。
どちらにしても、金が要る。
私が十年、無償で引き受けていたのは、その金でした。
◆
三日後、二通目が届きました。
今度は、リナリーの字でした。
『お姉さま
管理院から人が来ました。
わたしの名前で百通も届け出があると言われました。わたしは何も知りません。お父さまに聞いても、お前が署名したのだから説明しろと言われます。
わたし、誓約書が読めません。読めないのに、どうやって説明すればいいのですか。
お姉さまが書いたのでしょう。だったら、お姉さまが説明してください。
お願いします。助けてください』
私は、その手紙を長いあいだ見ていました。
最後の二行だけ、字が乱れていました。
◆
翌朝、セヴェリン様に相談しました。
「妹から書状が参りました。管理院の照会について、説明を求められて困っていると」
「助けを求めているのか」
「求めております」
私は言いました。
「そして、私は助けられません」
「なぜだ」
「届出名義人はリナリーです」
私は言いました。
「説明できるのは名義人だけです。私が代わりに説明すれば、名義人でない者が処理していた事実を管理院に申告することになります。そうなれば、百通すべてが名義冒用として扱われます」
「冒用」
「他人の名を使って届け出ることです。届出は取り消され、やり直しになります」
私は続けました。
「そして、冒用の届出は、当事者にも効力が及びません。四十件の小作契約が、一斉に効力を失います。小作人が土地を追われる恐れがございます」
セヴェリン様の眉が、寄りました。
「村人が巻き込まれるのか」
「はい」
私は言いました。
「ですから、私は何も言えません。事実を言えば、関係のない人が困ります」
◆
「では、どうする」
「一つだけ、道がございます」
私は言いました。
「リナリーが、自分で説明することです」
「読めないのだろう」
「読めません。ですが、届出は読めなくてもできます」
私は言いました。
「届出は、署名と書式が揃っていれば成立します。中身を理解しているかどうかは、管理院は問いません。ですから、妹が『内容は代理人に読ませ、自分の判断で署名した』と説明すれば、届出は有効のまま残ります」
「代理人とは」
「誰でもかまいません。名を出す必要もございません」
私は言いました。
「ただ、その説明をするには、妹が自分でそう言わなければなりません。私が言葉を教えても、聞かれれば答えられません」
「答えられなければ」
「終わりです」
私は言いました。
「ですから、妹は自分で誓約書を読めるようになるしかありません。百通すべてでなくとも、代表的な数通を、内容を説明できる程度に」
セヴェリン様が、こちらを見ました。
「教える気か」
「――迷っております」
私は正直に言いました。
「教えれば、妹は説明できるようになります。百通は残り、村人も無事です。父も、当面は困りません」
「困らないと、また同じことになるな」
「なります」
私は言いました。
「妹が読めるようになれば、父は読み手を雇いません。妹に押し付けます。今度は妹が、私と同じ場所に座ることになります」
執務室が、静かになりました。
「教えなければ」
セヴェリン様が言いました。
「百通が崩れる。村人が困る」
「はい」
「どちらを選んでも、誰かが困る」
「はい」
私は膝の上で、手を握りました。
「ただ」
「なんだ」
「三つめの道が、ないわけではございません」
私は言いました。
「妹に教えるのではなく、妹自身が読み手を雇えるようにすることです」
「金がない」
「父には、ございません」
私は言いました。
「ですが、妹には持参金がございます。まだ嫁いでおりませんので、家に留保されたままのはずです」




