第十八話 丘の上の協議
二十日は、風の強い日でした。
北の丘に、双方が卓を出しました。モーリス子爵家からは、今回は当主本人が来ています。五十がらみの、恰幅のよい男でした。先日の家令が後ろに控えています。
「ガルドウィン辺境伯。わざわざ丘の上とは」
子爵は笑いながら言いました。
「境界の協議でございますので」
私が答えました。
「奥方でしたな。読み手をなさっているとか」
「妻です」
セヴェリン様が言いました。
「なるほど」
子爵は椅子に腰を下ろしました。
「では、単刀直入に申し上げましょう。あの掲示は、取り下げていただきたい」
◆
「理由を伺いたい」
セヴェリン様が言いました。
「土地の値が下がります」
子爵は率直でした。
「あの丘には、来年から羊を入れる予定でおりました。買い手も付きかけておったのですが、掲示を見たと言って、話を引かれました」
「掲示に、誤りがございましたか」
私が尋ねました。
「誤りはない」
子爵は認めました。
「誤りはないが、書き方が悪い。未発効の予約があると書けば、誰でも揉め事があると受け取る」
「揉め事はございませんか」
「今のところは、ない」
「では、掲示の第三行が正しいことになります」
私は言いました。
「予約は未発効である。今のところは、というのは、そういう意味かと存じます」
子爵の眉が、わずかに動きました。
◆
「奥方」
「はい」
「取り下げていただけるなら、こちらにも用意がある」
来た、と思いました。
「伺います」
「丘の東側、二十歩ぶんをお返ししよう」
子爵は言いました。
「四十歩のうち、半分だ。復元の誓約を新たに結び、境界を二十歩戻す。掲示は取り下げていただく。それで、双方の面目が立つ」
私は少し、間を置きました。
「ご提案の趣旨は、承りました。ただ、一点、確認をお願いいたします」
「なんだ」
「新たに結ぶ復元誓約と、既存の略式署名は、どのような関係になりますでしょうか」
子爵は答えませんでした。
代わりに、後ろの家令が口を開きました。
「新誓約の成立により、既存の予約は目的を達したものとして消滅いたします。そのように条文を置きます」
私は頷きました。
「では、こちらの理解を申し上げます。二十歩が戻り、残る二十歩の予約は消える。そういうご提案でよろしいですか」
「そのとおり」
「承知いたしました」
私は言いました。
「お断りいたします」
◆
風が、卓の上の紙を鳴らしました。
「即答ですかな」
子爵の声から、笑みが抜けていました。
「はい。理由を三つ申し上げます」
私は言いました。
「一つ。当家は、予約の中身を知りません。中身を知らないまま消滅させることは、判断ができません」
「中身は、境界の復元でしょう」
「それは推定です」
私は言いました。
「覚書には、二年後に境界を旧位置へ復すると書かれております。旧位置とは、四十歩です。二十歩ではございません」
「覚書」
子爵の視線が、私に固定されました。
「そのようなものが」
「ドラン村の前村長が保管しておりました。先代様と村長の連署でございます」
私は写しを卓に置きました。
「先代様は、村に対して二年で戻すと約束しておられました。二十歩とは書かれておりません」
◆
子爵は、写しを取って読みました。
読み終えて、卓に戻しました。表情は動きません。
「これは、誓約書ではないな」
「覚書でございます」
「術式署名がない。効力もない」
「効力はございません」
私は認めました。
「ですが、先代様の意思の記録ではございます。そして、この覚書には略式署名が入っております」
私は指で示しました。
「モーリス家の正本にあるものと、同じ形の印です」
子爵の指が、卓の縁で止まりました。
「二つめの理由を申し上げます」
私は続けました。
「ご提案は、掲示の取り下げと、二十歩の返還を交換するものです。ですが、掲示は事実の公示でございます。事実を取り下げることは、当家にはできません」
「取り下げられぬと」
「取り下げる根拠がございません」
私は言いました。
「四行のうち一行でも誤りがあるとご指摘いただければ、訂正いたします。誤りがないのであれば、取り下げは虚偽の隠蔽になります」
◆
「三つめは」
子爵が、低く言いました。
「三つめの理由は、なんです」
「予約の消滅は、当家に不利益をもたらす恐れがございます」
私は言いました。
「予約の中身を知らないまま消滅させれば、そこに含まれていたかもしれない当家の権利も、同時に消えます。中身を確かめずに消すことは、白紙の権利放棄と同じでございます」
「あるかどうかも分からぬ権利を」
「分からないからこそ、消せません」
私は言いました。
「ご提案を受けるとしましたら、条件が一つございます」
「聞こう」
「予約の中身を、双方で確認することです」
私は言いました。
「復元誓約の草案が、どこかにございます。それを卓の上に出し、双方で読み、そのうえで消すか活かすかを決める。中身を知ってからであれば、二十歩でも十歩でも、協議が成り立ちます」
丘の上を、風が長く渡りました。
子爵は、しばらく黙っていました。
「――草案の所在を、当家は存じません」
「そうですか」
私は頷きました。
「では、心当たりを申し上げてもよろしいでしょうか」
◆
「二年前、当家の書斎を整理した者がおります」
私は言いました。
「王都のヴェルナーという書類屋でございます。先代様の依頼で入り、作業の途中で先代様が亡くなられました。その際、十二通の書類を持ち出しております」
子爵の表情は、変わりませんでした。
家令のほうが、わずかに身じろぎをしました。
「本人が認めております」
私は続けました。
「来月、返却に参ると申しております。その中に草案が含まれていれば、双方で確認できます」
「含まれていなければ」
「そのときは、含まれていなかったという事実が残ります」
私は言いました。
「十二通の控えは、本人が持っております。返却された数と控えの数を突き合わせれば、抜けがあるかどうかは分かります」
子爵は、長いあいだ私を見ていました。
「――奥方」
「はい」
「あなたは、この件をどこまで調べる気ですかな」
「書かれていることを、書かれているとおりに読むだけでございます」
私は言いました。
「書かれていないものは、探しに参ります」
◆
協議は、そこで打ち切られました。
次回は、ヴェルナーの返却を待ってから。日取りは追って、ということになりました。前回と同じ先延ばしですが、今回は理由がはっきりしています。
馬車に乗ってから、セヴェリン様が口を開きました。
「二十歩を、蹴ったな」
「はい」
「戻る土地だった」
「戻ります。ただ、二十歩戻る代わりに、二十歩を永久に諦めることになります」
私は言いました。
「そして、予約が消えます。消えたあと、あの草案に何が書いてあったかは、永久に分からなくなります」
「私の手の紋も」
「そこが、一番大きうございます」
私は言いました。
「紋の誓約が、あの草案と関わっているかどうかは、まだ分かりません。ですが、関わっている可能性がある以上、予約を消すのは危険です」
セヴェリン様は、窓の外を見ていました。
丘の杭が、遠ざかっていきます。
「子爵は、草案の所在を知っているか」
「知っておられます」
私は言いました。
「三つめの理由を申し上げたとき、家令が動きました。子爵は動きませんでした。当主のほうが、腹が据わっているだけかと」
「――そうか」
「それと、もう一つ」
私は言いました。
「ヴェルナーの名を出したとき、子爵は驚かれませんでした」
車輪が、石を踏んで揺れました。
「知っている名だということです」




