第十六話 公示は嘘をつかない
掲示文は、四行に収めました。
長く書けば、読める者しか読みません。短く書けば、読める者が読み上げます。読み上げられれば、読めない者にも届きます。
『北の丘ヴァレ地区の境界は、二年の期間満了により確定した。
ただし、当家およびモーリス子爵家の双方の正本に、略式署名が残されている。
この予約された誓約は、いまだ本署名を経ておらず、未発効である。
当家は、この事実を領民に公示する』
セヴェリン様が読み終えて、顔を上げました。
「短いな」
「四行です。村の集会所で読み上げるのに、ちょうどよい長さかと」
「三行目は要るか」
「要ります」
私は言いました。
「未発効である、と明記しなければ、発効済みだと誤解する者が出ます。誤解は、後で必ず揉めます」
「四行目は」
「形式です。公示の主体を明示しております」
セヴェリン様は、もう一度読み返しました。
「――嘘は、一つもない」
「一つもございません」
「だが、これを読んだ者は」
彼は言いました。
「あの丘は、まだ揉めていると思う」
「思うでしょう」
私は答えました。
「思われることと、書かれていることは、別のものです。私は書かれていることだけに責任を負います」
◆
掲示は、三日後に行われました。
領内の五つの村と、街道沿いの宿場、それに領境の関所。合わせて七か所です。
ドラン村での読み上げには、私も立ち会いました。ガーロ村長が集会所の前に立ち、大きな声で四行を読み上げます。村の者が二十人ほど集まっていました。
「――当家は、この事実を領民に公示する」
読み終えると、しばらく誰も口を開きませんでした。
やがて、後ろのほうから声が上がりました。
「つまり、丘は戻るってことかね」
「戻るとは書いてない」
村長が言いました。
「まだ決まってないと書いてある」
「決まってないなら、戻る目もあるだろ」
「そりゃ、あるだろうな」
村長はそう答えました。
私は口を挟みませんでした。
公示は、そこまでしか言っていません。その先を村の者がどう考えるかは、村の者の自由です。
◆
テオが、掲示板の前に立っていました。
指で文字を追っています。私が近づくと、彼は顔を上げました。
「奥様。俺、四行のうち、二行は読めました」
「どの二行でしょうか」
「一行目と、四行目です」
テオは言いました。
「二行目と三行目は、難しい言葉が多くて」
「略式署名と、未発効ですね」
「はい」
私は掲示板を見ました。
「テオさん。次の指導で、この二つの言葉をやりましょう」
「難しい言葉からやるんですか」
「難しくありません」
私は言いました。
「略式署名は、まだ本番ではない印、という意味です。未発効は、まだ効いていない、という意味です。それだけです」
テオは、しばらく口の中で繰り返していました。
「まだ本番じゃない印。まだ効いてない」
「はい」
「――じゃあ、まだ何とかなるってことですか」
私は少し、言葉を探しました。
「そうとは限りません。ただ、終わってはおりません」
◆
反応が来たのは、掲示から六日後でした。
モーリス子爵家からの書状です。前回より厚く、文面も長いものでした。
『公示の件、拝見いたしました。当家といたしましては、確定した境界に関して不確定の印象を与える表現がなされたことを、遺憾に存じます。つきましては、早急に協議の場を持ちたく、来る二十日、当家にてお待ち申し上げます』
私は読み終えて、日付を確かめました。
「十日後です。それと、場所が向こうの屋敷になっております」
「呼びつけたな」
「はい」
私は言いました。
「ただ、日取りが示されました。前回、示さなかった相手が、今回は場所まで指定してきております」
「急いでいるということか」
「急いでおられます」
私は書状を置きました。
「遺憾に存じる、と書いておりますが、公示の内容に誤りがあるとは書いておりません。書けないのです。四行とも事実ですので」
「では、何を協議する気だ」
「表現の是正を求めてくると思います。掲示を取り下げろ、と」
私は言いました。
「そして、取り下げる代わりに何かを差し出す。おそらくは、それが本題です」
◆
「行くか」
セヴェリン様が言いました。
「行くべきかと存じます。ただ、条件を一つ付けます」
「条件」
「場所です」
私は言いました。
「向こうの屋敷では、正本を出させられません。境界確認のときは、慣例で持参が要りました。ですが、協議は慣例外です。向こうの屋敷であれば、出す出さないは向こうの自由になります」
「では、どこで」
「北の丘で」
私は言いました。
「境界に関する協議ですので、現地でというのは不自然ではありません。そして、現地であれば、こちらが杭を確認しながら話を進められます」
「向こうが断ったら」
「断る理由が弱くなります。遺憾に存じる、早急に協議したい、と書いてきておりますので」
セヴェリン様は少し考えて、頷きました。
「返書を書いてくれ」
「承知いたしました」
◆
返書を書き、使いを出した翌日、屋敷に別の来客がありました。
バルトが執務室へ来て、少し困った顔をしました。
「旦那様。ヴェルナー殿がお見えでございます」
私は手を止めました。
セヴェリン様の視線が、こちらへ向きます。
「呼んでいないな」
「呼んでおりません」
バルトは言いました。
「前回のご相談の続きだと仰せです。半年ごとに伺うことになっている、と」
「二月と六月に来ている」
私は覚え書きを思い出しました。
「今は九月です。四か月ぶりになります」
「予定より早い、ということか」
「早うございます」
セヴェリン様が、しばらく黙りました。
「――どうする」
「お会いになるべきかと存じます」
私は言いました。
「向こうから来た以上、断れば、こちらが警戒していると伝わります。会えば、向こうが何を確かめに来たのかが分かります」
「君は同席するか」
「いたします」
私は立ち上がりました。
「ただ、一つお願いがございます。私のことは、読み手だとお伝えにならないでください」
「なぜだ」
「妻としてだけご紹介ください」
私は言いました。
「読める者がいると知られれば、話し方を変えられます。知らないと思っているうちの話し方を、聞きたいのです」
セヴェリン様は、少しのあいだ私を見ていました。
「――君は」
言いかけて、彼は口の端をわずかに動かしました。
「怒っていると言ったな。あれは、正しかった」
「怒りではありません」
私は言いました。
「用心です」
「同じことだろう」
彼は立ち上がりました。
「行こう」
応接間の扉の向こうに、二年前から屋敷の書類を見続けてきた人がいます。
私は歩きながら、頭の中で条文を整理しました。何を聞かれても、事実だけを答える。事実を、必要な分だけ答える。
嘘をつかずに、全部は言わない。
それは、あの境界誓約を書いた者がやったことと、形の上では同じことでした。




