第十五話 主語のない条文
施行細則の第二編に、解釈の規定がありました。
『第五十八条 条文において義務または禁止の主体が明示されない場合、当該条項は、その直前の条項において義務を負う者を主体とみなす』
私はその一行を、三度読みました。
境界誓約の第五条を、開きます。
『甲は、境界移動に伴う測量および杭の設置に要する費用を負担する。乙は、これに立ち会うものとする』
義務を負っているのは、甲です。ガルドウィン辺境伯家。
第六条の主体は、第五条で義務を負う者。
つまり――異議を申し立てられないのは、甲だけです。
◆
「セヴェリン様」
執務室に入るなり、私はそう呼びました。声が少し高くなっていたと思います。
「どうした」
「境界誓約の第六条ですが、異議を申し立てられないのは、こちらだけです」
彼が顔を上げました。
「双方ではないのか」
「主語がございません」
私は施行細則を開いて置きました。
「主語のない条文は、直前の条文で義務を負う者を主体とみなす、と規定がございます。第五条で義務を負っているのは甲、つまり当家です。ですから、第六条の異議申立禁止は、当家にのみかかります」
「モーリス家は、異議を申し立てられる」
「申し立てられます。今からでも」
私は言いました。
「もっとも、向こうが異議を申し立てる理由はございません。得をしている側ですので」
「では、意味がないだろう」
「意味は、あります」
私は言いました。
「片務です。この誓約書は、双務のふりをした片務誓約です。第五条で費用を当家に負わせ、第六条で異議権を当家からだけ奪っている。二か所です」
セヴェリン様の指が、机の上で止まりました。
「意図的か」
「主語を落とすのは、写し間違いでも起こります。ただ」
私は続けました。
「第五条の書き方が、うますぎます。甲の義務を先に書き、乙を後に添えている。逆に書けば、第六条の主体は乙になっておりました。順序が一つ違うだけで、結果が変わります」
「偶然ではない、と」
「断定はいたしません。ただ、この誓約書を書いた者は、施行細則第五十八条を知っております」
◆
「――誰が書いた」
セヴェリン様が言いました。
「書式から、ある程度は分かります」
私は写しを示しました。
「条文の並べ方、句読の打ち方、余白の取り方。管理院の書式に忠実です。管理院で訓練を受けた者の手です」
「登録された読み手ということか」
「そうとは限りません。訓練を受けても、登録に至らない者もおります」
私は言いました。
「試験に落ちる。身元の保証が得られない。あるいは、要件を欠く」
「要件」
「いずれの家にも属さぬ者であること」
私は施行細則の該当頁を開きました。
「家督相続人は登録できません。次男以下でも、相続権を残していれば同じです。管理院で学んだあと、家の事情で登録できなくなる者は、少なくないと聞きます」
「そういう者は、どうする」
「多くは家に戻ります。ですが」
私は言いました。
「戻らずに、資格のないまま誓約の仕事を続ける者もおります。管理院に登録されていなければ、記録も残りません。責任も問われません」
執務室が、静かになりました。
「ヴェルナーか」
「まだ、何も申せません」
私は言いました。
「照会の返答が届けば、はっきりいたします」
◆
返答は、その三日後に届きました。
私は封を切り、目を通し、それからセヴェリン様に渡しました。
短い回答でした。
『照会のヴェルナーなる者につき、当院の登録名簿に該当なし。ただし、受験記録に同名の者一件あり。二十二年前、第二次試験まで進み、辞退』
「辞退」
セヴェリン様が読み上げました。
「試験を途中でやめている」
「はい。二十二年前ですので、当時二十前後かと」
私は言いました。
「第二次試験まで進んでいるということは、学科は通っております。腕はある。辞退の理由は書かれておりません」
「調べられるか」
「受験記録の詳細は、本人以外には開示されません」
私は続けました。
「ただ、二十二年前に王都で試験を受けた者であれば、当時の同期に覚えている方がいるかもしれません。登録された読み手は名簿に載りますので、辿れます」
「王都に行く必要があるな」
「はい」
私はそう答えてから、少し迷いました。
「セヴェリン様。王都行きについて、申し上げたいことがございます」
「言え」
「紋の鑑定も、王都でなければできません。ヴェルナーの件と併せれば、一度の旅で済みます」
「そのつもりだ」
「ですが」
私は言いました。
「今、行かれるべきではないと存じます」
◆
セヴェリン様が、こちらを見ました。
「理由は」
「モーリス子爵が、面会を先延ばしにしております。理由が『王都の所用』でした」
私は言いました。
「向こうが王都にいるあいだに、こちらも王都へ入るのは、避けたいと考えます」
「鉢合わせを恐れるのか」
「恐れているわけではありません。ただ、順序の問題です」
私は続けました。
「こちらが王都で何を調べたかは、必ず伝わります。管理院の照会は記録に残りますし、人に会えば話は流れます。向こうが王都にいる状態でそれをすれば、こちらの手の内を、動きながら見せることになります」
「では、いつ行く」
「向こうが領地に戻ってからです」
私は言いました。
「面会を受けさせ、話をし、こちらが何を知っているかを一度そこで示す。示す範囲は、こちらで選べます。そのうえで王都へ入れば、向こうは追いかけて確かめる立場になります」
セヴェリン様は、しばらく黙っていました。
「――先に会うということか」
「はい。ただ、向こうは日取りを示しておりません」
「示させる方法は」
「一つ、ございます」
私は言いました。
「三者誓約の第十条を使います」
◆
「掲示か」
セヴェリン様が、少し眉を寄せました。
「取水の合計値だ。境界とは関係ない」
「関係ございません。ただ、掲示は公示です」
私は言いました。
「毎年、乾期の前に集計値を村の集会所へ掲示する。この形式を、境界にも使います。異議申立期間の満了に伴い、確定した境界を領内に公示する。慣例としてございます」
「公示すると、どうなる」
「公示された内容に誤りがある場合、隣接領主は訂正を申し入れる機会を持ちます」
私は続けました。
「公示は、確定を告げるものです。ですが同時に、確定した内容を万人の目に晒します。掲示する内容に、当家は略式署名の存在を書き添えます」
セヴェリン様が、身を起こしました。
「掲示に書くのか」
「事実として、書きます。境界は確定した。ただし双方の正本に略式署名が残っており、予約された誓約が未発効である。この二つは、どちらも事実です」
「虚偽ではないな」
「一字も」
私は言いました。
「そして、これを見た者は、こう考えます。あの丘には、まだ何かが残っている、と」
「モーリス家は、放っておけない」
「放っておけば、丘の権利が不安定だという話が、周辺に広まります」
私は言いました。
「土地の権利が不安定だと知られると、値がつきません。売ることも、担保に入れることもできなくなります」
セヴェリン様が、ゆっくりと椅子の背にもたれました。
「――そうか」
「向こうが二年間、こちらの沈黙を利用したのと、同じことです」
私は言いました。
「沈黙が向こうの武器でした。ですから、こちらは声を出します。嘘は一つも言わずに」
彼は、少しのあいだ天井を見ていました。
それから、こちらを見て、短く言いました。
「掲示文を書いてくれ」
「承知いたしました」
私は一礼して、扉へ向かいました。
背中に、声がかかりました。
「ヴィオラ」
振り返ります。
「君は、怒っているか」
私は少し、答えに詰まりました。
「……怒っている、のでしょうか」
「怒っていない者は、こういう手を思いつかない」
セヴェリン様は言いました。
「私は、思いつかなかった」
私は扉の前で、自分の手を見ました。
読める者がいなかった家。読めない者に署名させた書記官。読めない村。読めない当主。
そして、読めないことを利用して、書かれ方だけで結果を決めた誰か。
「――怒っているのかもしれません」
私はそう答えました。
「ただ、条文は怒りません。ですから、怒りは条文にしないようにしております」
「それは、怒っていないことと同じか」
「違います」
私は言いました。
「同じにしないために、書いております」




