第十四話 隠す理由のない記録
バルトの覚え書きは、六冊ありました。
先代様が亡くなった年の秋から、今月まで。二年分です。私は執務室の卓を借り、六冊を日付順に並べました。
「どのようにお探しになるのですか」
家令が尋ねました。
「先に、説明のつく支出を消していきます」
私は言いました。
「残ったものが、説明のつかない支出です。探すのではなく、消していきます」
「消去法でございますね」
「はい。遠回りですが、確かです」
◆
四日かかりました。
領地の支出は、大半が説明のつくものでした。人件費、修繕費、種籾の買付、税の納付、冬の備蓄。バルトの記録は几帳面で、金額の脇に必ず一言添えてあります。「屋根板 東棟」「井戸縄 三本」といった具合です。
説明のつかないものは、四つ残りました。
一つは、先代様の死の直後、十月。『整理費』とだけ書かれた支出。
「バルトさん。この整理費は」
「葬儀の後始末でございます。書斎の片付けに、人を入れました」
「どのような方を」
「王都の業者でございます。先代様がお呼びになっていた者を、そのまま」
私は手を止めました。
「先代様が、生前に呼んでおられた」
「はい。亡くなる少し前に、書斎の書類を整理させると仰せで。話がついていたようでしたので、私はそのまま進めました」
「業者の名は」
バルトは、しばらく記憶を辿る顔をしました。
「……ヴェルナー、と申しました。書類整理を専門にする者だと」
「屋号は」
「聞いておりません。個人でございました」
私は覚え書きに、その名を書き留めました。
書斎が荒れた原因が、盗人ではなかった可能性が出てきました。先代様が呼んだ業者が、書類を持ち出した。それであれば、荒れていた理由も説明がつきます。整理の途中で、主が死んだのです。
◆
二つ目は、昨年の一月。『調停料』という項目でした。
「これは」
「土地の境で、隣の村と揉めまして。仲立ちを立てました」
「仲立ちは、どなたが」
「王都から人を呼びました」
バルトは少し言葉を切りました。
「……同じ者でございます。ヴェルナー」
私は顔を上げました。
「書類整理の方が、調停を」
「そう聞いております。誓約に詳しい者だから、と」
◆
三つ目と四つ目は、今年に入ってからでした。
二月と、六月。どちらも同じ額で、『相談料』とだけあります。
「これも」
「同じでございます」
バルトは言いました。言ってから、自分の言葉に気づいたようでした。
「……申し訳ございません。私は、疑いもいたしませんでした」
「疑う理由がありません」
私は言いました。
「先代様がお呼びになった方です。その後も来ておられるなら、引き続きお願いしているのだと考えるのが自然です」
「ですが」
「バルトさん」
私は帳面を閉じました。
「その方は、二年前に書斎の書類を整理されました。整理した本人が、その後も定期的に屋敷へ出入りしております」
家令の顔から、血の気が引きました。
「奥様。まさか」
「まだ、何も申せません」
私は言いました。
「ただ、この二年で、屋敷の書類を最も多く見た人物が誰かと申しますと――その方になります」
◆
「ヴェルナー」
セヴェリン様は、その名を繰り返しました。
「顔は、覚えている」
「お会いになったことが」
「二度ほど、屋敷ですれ違った。四十がらみの、大人しい男だ。挨拶をされて、書類の整理を頼んでいると聞いた」
「お尋ねになりませんでしたか」
「バルトが呼んだと思っていた」
彼は言いました。
「私は書類を読まない。読める者がいれば任せる。それだけだ」
私は口を挟みませんでした。
責める話ではありません。読めない者が読める者に任せるのは、正しい判断です。ただ、任せた相手を確かめる術がなかった。それだけのことです。
「セヴェリン様。この二年で、その方に支払った額を合計いたしました」
私は数字を示しました。
「相談料と調停料と整理費、合わせて金貨で七枚ほど」
「多いのか」
「少なくありません。ただ、法外でもありません。誓約に詳しい者を、二年で四度呼んだ費用としては、相場の内です」
「では、問題は金ではないな」
「はい」
私は言いました。
「問題は、この方が二年前に何を見て、何を持ち出したかです」
◆
「呼べるか」
セヴェリン様が言いました。
「相談料を払っているなら、また呼べばいい」
「呼べます。ただ」
私は少し考えました。
「呼んでよいものかどうか、判断がつきません」
「なぜだ」
「呼べば、こちらが調べていることが、その方に伝わります」
私は言いました。
「モーリス家には、もう伝わっております。ですが、この方が誰と繋がっているのかは、まだ分かりません。何も繋がっていないかもしれません。ただの実直な書類屋かもしれません」
「だが、そうでないかもしれない」
「はい」
私は続けました。
「順序としては、先に管理院へ問い合わせるべきかと存じます。ヴェルナーという者が、読み手として登録されているかどうか」
「登録されていれば」
「素性が分かります。試験を通り、身元保証人がおり、記録が残っております」
「されていなければ」
「無資格で誓約の相談に応じていたことになります」
私は言いました。
「それ自体は、罪ではありません。助言は誰でもできます。ただ、無資格の者が二年にわたって一つの家の書類を見ていたというのは――」
私は言葉を選びました。
「その家に、読める者がいなかったからこそ、できたことです」
◆
問い合わせを出したのは、その日のうちでした。
一件だけの照会ですから、前回より早く返ってくるはずです。それでも、往復で十二日はかかります。
待つあいだ、私はドラン村へ通いました。
生徒は十一人に増えていました。数字を教え、日付を教え、人の名を教えます。テオは飲み込みが早く、三度目には自分の名を書けるようになりました。
「奥様。これ、なんて読むんです」
テオが板に書いた文字を指しました。私が例に出した、誓約書の定型文です。
「甲は乙に対し、と読みます」
「甲と乙」
「当事者のことです。名前を書く代わりに、甲と乙と書きます」
「なんで名前を書かないんです」
「書く場合もあります。ただ、条文が長くなると、名前より甲乙のほうが読み違えません」
私はそう答えてから、少し考えました。
「ただ、注意が要ります。甲と乙が途中で入れ替わっている誓約書が、ときどきあります」
「入れ替わる」
「はい。写し間違いのこともありますし、わざとのこともあります」
テオが顔をしかめました。
「わざとって」
「甲と乙が入れ替われば、義務を負う側が入れ替わります。長い条文の途中で一度だけ入れ替えておくと、気づかれにくいのです」
私は板に、二行書きました。
「ですから、甲乙が出てくる誓約書は、必ず最初に数えます。甲が何度、乙が何度出てくるか」
「数えるだけで、分かるんですか」
「分かることがあります」
◆
その言葉を口にしてから、私は板の前で動きを止めました。
数える。
私は境界誓約を、条文の意味では読みました。矛盾を確かめ、対価の欠落を確かめました。
けれど、数えていません。
甲と乙が、それぞれ何度出てくるか。
数えていませんでした。
「奥様?」
「――失礼。今日は、ここまでにいたします」
私は板を片付けました。
「急ぎの用を思い出しました」
◆
屋敷に戻り、私は境界誓約の写しを机に広げました。
第一条から第八条まで。
指で追いながら、印をつけていきます。甲が出てくるたびに一つ、乙が出てくるたびに一つ。
甲、ガルドウィン辺境伯家。乙、モーリス子爵家。
第一条、甲一、乙一。第二条、甲一。第三条、乙一。第四条、甲二、乙一。第五条、甲一、乙二。
第六条。
『本境界は、締結より二年を経過した日をもって確定し、以後いかなる異議も申し立てられない』
甲乙が出てきません。主語がありません。
私は指を止めました。
異議を申し立てられないのは、誰でしょうか。
条文には、書かれていません。
双方と読むのが自然です。けれど――書かれていないということは、確定していないということでもあります。
私は第七条、第八条まで数え終え、それから、もう一度第六条に戻りました。
主語のない条文。
一晩考えて分からなければ、明日、施行細則を引くことにしました。主語を欠いた条文の解釈について、必ず規定があるはずです。
そういう不備は、私が知る限り、二百年前から繰り返されてきたものですから。




