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第九話 魔王ノア

 翌朝、ギルドの空気はいつもと違っていた。

 入口近くに冒険者たちが集まり、掲示板の前でざわついている。酒場の席も埋まっているが、誰も大きな声で笑っていない。

 何かあった。

 そう思うより早く、視界にログが開く。

イベント一致率:84%

過去周回名称:【魔王の名を聞く日】

「朝から最悪だな」

 俺は小さく呟いた。

 ミオは薬師に言われた通り、足を庇いながら歩いている。昨夜の鐘のせいか、顔色はまだ悪い。

「宿で待っててもよかったんだぞ」

「一人の方が落ち着きません」

 短い返事。

 無理に残れとは言えなかった。

 俺たちが掲示板へ近づくと、人垣の向こうに赤い紙が見えた。

 緊急依頼。

 ギルド職員が声を張っている。

「北東街道にて魔族の斥候を確認! 商隊が一つ消息不明! Eランク以上の冒険者は調査隊への参加を検討してください!」

 魔族。

 その単語に周囲の冒険者たちが重い顔をする。

 俺は依頼票を鑑定した。

依頼:北東街道の魔族斥候調査

危険度:中

推奨ランク:E以上

関連勢力:魔王軍

備考:魔王ノアの活動圏拡大の可能性

 ノア。

 その名前を見た瞬間、頭の奥で何かが弾けた。

 知らない。

 知らないはずだ。

 なのに胸の奥が、懐かしさと痛みに似たものでいっぱいになる。

 敵の名前を聞いた時の反応ではない。

 もっと近い。

 もっと、取り返しのつかない何かだ。

【周回記録】が反応しています。

前回討伐対象:【魔王ノア】

前回関係性:閲覧不可

前回会話記録:閲覧不可

 討伐対象。

 関係性。

 なぜ敵に、関係性の項目がある。

「レンさん?」

 ミオが心配そうに俺を見る。

「大丈夫」

 全然大丈夫ではない。

 俺は近くのテーブルに座っていた冒険者たちの会話に耳を向けた。

「魔王ノアって、本当に北にいるのか」

「十年前に勇者が討伐したって話じゃなかったか」

「違う違う。討伐されたのは先代魔王だ。ノアはそのあと出た新しい魔王」

「でも教会の聖典だと、魔王はずっと同じ名で呼ばれてるって」

「魔王なんてどれも同じだろ。世界の敵だ」

 世界の敵。

 便利な言葉だ。

 女神教会の鐘と同じ匂いがする。

 そこへ、聞き覚えのある声が割り込んだ。

「世界の敵、ですか。ずいぶん大きなラベルですね」

 振り向くと、フロッグが椅子の上に立っていた。

 立たないとテーブルに顔が届かないらしい。

「フロッグさん」

「おはようございます。勇者候補のレン君」

「その呼び方やめてください」

「では、救済者候補」

「もっと嫌です」

 フロッグは少しだけ笑い、俺の向かいに座った。

「魔王ノアの名を聞きましたね」

「知ってるんですか」

「この世界で知らない人は少ないでしょう。ただし、知っていることが正しいとは限りません」

「魔王は世界の敵じゃないと?」

「敵として表示されている、とは言えます」

 俺は眉をひそめた。

「表示?」

「ステータスを見ている君なら分かるはずです。世界は、物事に名前を付ける。勇者、救済者、魔王。名前が付くと、人はその名前の通りに扱われる」

 称号はラベル。

 フロッグが前に言った言葉が蘇る。

「魔王も称号みたいなものだと?」

「少なくとも私は、そう疑っています」

 ミオが小さく息を呑んだ。

「そんなことを言ったら、教会に」

「怒られますね。だから小声で言っています」

 フロッグはまったく小声ではなかった。

「魔王ノアは、以前は勇者だったという噂があります」

 胸が強く脈打った。

「勇者」

「ええ。女神に選ばれ、スキルを授かり、仲間と共に旅をした。けれど、ある時から教会の記録から名前が消えた。そして数年後、魔王ノアの名が現れた」

「勇者が魔王になった?」

「物語としては分かりやすいでしょう。堕ちた勇者。裏切り者。世界の敵」

 フロッグの目が細くなる。

「でも私は、少し違うと思っています」

「何が」

「彼は堕ちたのではなく、降りたのかもしれない」

 降りた。

 その言葉だけが、妙に重かった。

「物語から?」

 俺が言うと、フロッグは満足そうに頷いた。

「察しがいい」

 その時、ギルドの奥から受付嬢が現れた。

 昨日の女性だ。

「レン様」

 呼ばれて、背筋が冷える。

「ギルドマスターがお呼びです」

「俺はFランクですが」

「存じております」

「魔族調査には参加できませんよ」

「その件ではありません」

 受付嬢は完璧な笑顔で言った。

「女神教会より、レン様の登録情報に照会が入っております」

 昨夜の鐘。

 観測対象として認識された、という警告。

 やはり来た。

管理層からの照会を確認。

観測異常:軽度

対象スキル:【万能鑑定】

秘匿スキル:保護中

 秘匿スキルはまだ見つかっていない。

 だが、時間の問題かもしれない。

 フロッグが俺を見る。

「行くなら、気をつけて」

「行かない選択肢は」

「あります。ただ、行かなければ別の形で向こうから来るでしょう」

 軌道修正イベント。

 世界は俺を同じ道へ戻す。

 俺は立ち上がった。

「ミオはここで」

 言いかけて、止める。

 俺が決めることじゃない。

「ミオ。俺はギルドマスターに会う。君はどうする」

 ミオは一瞬迷った。

 それから、顔を上げる。

「行きます」

「分かった」

 フロッグが小さく笑った。

「いいですね。少しずつ、命令ではなく確認になっている」

 俺は返事をしなかった。

 受付嬢に案内され、ギルドの奥へ向かう。

 背後で冒険者たちが、魔王ノアの名を噂し続けていた。

前回討伐対象:【魔王ノア】

前回関係性:閲覧不可

警告。

この名称は、あなたの過去死亡記録と関連しています。

 ノア。

 その名前は、敵の名というより、失くした何かの名のように響いていた。

 ミオを教会へ戻さない。

 俺の前回死亡原因を調べる。

 そこに、魔王ノアという名前も加わった。

 この三つは、たぶん別々の謎じゃない。

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