第八話 女神教会の鐘
その日の宿は、ギルド近くの安宿にした。
部屋は二つ取れなかった。金が足りなかったからだ。
宿の女将は、俺とミオを見比べてから「変なことしたら叩き出すよ」とだけ言い、毛布を一枚余分に貸してくれた。
ありがたい。
同時に、少し気まずい。
ミオは部屋の隅で毛布を抱え、俺は扉に近い床に座った。
「ベッドを使っていい」
「でも」
「足を怪我してる」
「レンさんも怪我をしています」
「俺は床で寝ても死なない」
「そういう問題では」
ミオは言いかけて、黙った。
沈黙が落ちる。
窓の外から、町のざわめきが聞こえる。どこかで酒場の笑い声。馬車の車輪。夜番の足音。
この町は普通に夜を迎えている。
俺のステータスにどんなログが出ようと、人は飯を食い、眠り、明日の仕事を心配する。
それが少し救いで、少し怖かった。
「レンさん」
ミオがぽつりと言った。
「私は、あなたについて行かない方がいいんでしょうか」
心臓が変な動きをした。
「どうしてそう思う」
「私がいると、レンさんが困っているように見えるから」
違う、とすぐ言いたかった。
けれど、違うだけでは足りない。
「困ってる」
正直に言うと、ミオの顔が暗くなった。
「でも、ミオが悪いわけじゃない」
「……」
「俺が、自分の助け方を信用できてないだけだ」
ミオは意味を探すように俺を見る。
俺はそれ以上うまく説明できなかった。
周回記録のことを話せば、説明はできる。
だが、それは彼女に「君は過去十七回も俺に救われた」と突きつけることになる。
今のミオには重すぎる。
それに俺自身、その事実をまだ飲み込めていない。
夜が更けたころ、町に鐘が鳴った。
カァン。
白い部屋と同じ音。
ミオが肩を震わせる。
廊下の向こうで、宿の女将が足を止めた。
下の食堂から聞こえていた笑い声が、一拍で細くなる。
誰かが椅子を引く音。
食器を置く音。
そして、祈りの言葉。
町が一斉に同じ方向を向いた。
俺の視界に警告が走った。
女神教会の定時祈祷を検知。
周辺観測密度が上昇しています。
「観測密度?」
鐘は二度、三度と鳴った。
そのたびに、頭の奥が薄く痺れる。
管理層への接続を検知。
一部ログを秘匿します。
「またか」
俺は立ち上がり、窓の外を見た。
町の中央に、白い尖塔が見える。女神教会だ。尖塔の上で、鐘が月明かりを浴びている。
あれは祈りの鐘ではない。
直感がそう告げていた。
人を集めているのではない。
同じ音に、誰がどう反応したかを見ている。
「外へ出る」
「私も」
「足は」
「一人でいる方が怖いです」
それを言われると弱い。
俺は頷き、ミオに外套を渡した。
夜のリーベルは昼より静かだった。
けれど教会へ近づくほど、人の流れが増えていく。老若男女が白い鐘の紋章へ向かって歩いている。皆、眠そうなのに逆らえないような顔をしていた。
「夜の祈りです」
ミオが小さく言う。
「保護院でも、鐘が鳴ったら必ず祈らされました」
「何を祈る」
「女神様が、私たちを正しい道へ導いてくださるように」
正しい道。
便利な言葉だ。
誰かが用意した道を歩かせるには、ぴったりの名前だった。
教会前の広場に出ると、白い法衣の神官たちが祈りを捧げていた。
中央には、女神エルシアの像。
白い部屋で見た女神と同じ顔。
俺は思わず立ち止まった。
その像の目が、一瞬だけこちらを向いた気がした。
警告。
観測対象として認識されました。
【周回記録】の一部機能を制限します。
「まずいな」
「レンさん?」
「離れよう」
ミオの手を取ろうとして、俺は止まった。
手を取る。
守る。
連れて逃げる。
それはきっと、過去に何度もした動きだ。
俺はミオを見る。
「ここから離れたい。ミオは?」
ミオは少し驚いたあと、すぐに頷いた。
「私も、離れたいです」
「分かった」
俺たちは広場を外れ、細い路地に入った。
その時、路地の奥から軽い声がした。
「女神様の鐘はね、祈りじゃないんだよ」
薄暗がりに、一人の旅商人が立っていた。
白い羽飾りのついた帽子。丸い眼鏡。背には大きな荷箱。
顔立ちは人間に近いが、口元だけどこか鳥めいている。笑っているのに、目は少しも笑っていない。
「点呼だよ。誰がどこで、どんな感情を鳴らしているか。それを数えてる」
「あんたは」
「グース。しがない旅商人」
絶対にしがない旅商人ではない。
ミオが俺の後ろに隠れる。
グースはその様子を見て、少し肩をすくめた。
「怖がらせるつもりはないよ。今夜は忠告だけ」
「忠告?」
「あまり早く見上げすぎない方がいい。星を見るつもりで空を見た人間は、たまに自分が観測されてることに気づいちゃうから」
言っていることは分かりにくい。
でも、今の状況には合いすぎている。
「俺のことを知ってるのか」
「さあ。知ってるような、毎回はじめましてのような」
グースは荷箱から小さな鈴を取り出した。
「サービス。鳴らない鈴だよ」
「鈴なのに?」
「鳴らないから役に立つ。教会の鐘が鳴った時、これを握ってると少しだけ頭が静かになる」
受け取るべきか迷った。
鑑定する。
名称:沈黙鈴
状態:正常
効果:周辺観測音への精神干渉を軽減
作成者:閲覧不可
危険度:低
危険度は低。
作成者は閲覧不可。
怪しい。
だが、今は怪しくないものの方が少ない。
「代金は」
「今回は無料。君がどのくらい軌道を外れるか、僕も少し興味があるんだ」
グースは笑った。
「人は自由になりたいんじゃない。自分を縛ってくれる重力を探してるだけなんだよ」
「それが忠告か」
「ううん。ただの商売文句」
次の瞬間、表通りから人の足音が近づいた。
教会の神官らしき影が、路地を覗き込む。
俺は一瞬そちらを見る。
もう一度グースの方へ向いた時、旅商人の姿は消えていた。
残っているのは、手のひらの上の小さな鈴だけ。
遠くで鐘がまた鳴る。
俺は沈黙鈴を握りしめた。
頭の奥の痺れが、ほんの少しだけ弱まった。
観測干渉を軽減しました。
軌道偏差:1.7%
ミオが震える声で言う。
「あの人、何だったんですか」
「分からない」
分からないことばかりだ。
ただ一つだけ分かる。
この町では、祈りさえも誰かに数えられている。
そして、数えられていることに気づいた人間まで、たぶん数えられている。
次話、魔王ノアの名が出ます。




