第七十話 同じ軌道ではない
白い間に、新しい項目が固定された。
それは、世界を作り替えるほど大きな光ではなかった。
神話の終わりでもない。
女神の死でもない。
ただ、ステータスの片隅に、小さな扉が増えただけだった。
自己観測項目を追加。
【中心重力表示】
閲覧条件:
本人の同意
自己名の想起
観測負荷への警告確認
他者による代理閲覧:不可
強制開示:不可
その小さな扉は、世界のあちこちに届いていた。
リーベルの受付で、リナは端末を閉じ、あとで開くために自分の名前を小さく練習した。
女神教会で、セラは新しい手順書の一行目に「対象の名前を確認する」と書いた。
王国勇者庁の廊下で、カイトは誰の拍手も待たずに歩き出した。
ラベル剥がれの村で、リセは薬草を刻みながら、自分の項目を開くかどうかを明日決めることにした。
どれも、世界を救うほど大きな変化ではない。
でも、誰かの一日を少しだけ変えるには十分だった。
エルシアは、その表示を長く見ていた。
「これで、人間が完全に自由になるわけではありません」
「分かってる」
「多くの人は、見ないでしょう」
「それも選択だ」
「見た人が、必ず救われるわけでもありません」
「知ってる」
俺は頷いた。
完全な自由なんてない。
完全な救いもない。
それでも、扉があることは違う。
開けるかどうかを、自分で決められることは違う。
エルシアは目を伏せた。
「私は、管理をやめません」
ノアの目が鋭くなる。
だが、エルシアは続けた。
「世界の崩壊を防ぐために、最低限の骨組みは残します。危険な重力開示事故も防ぎます。完全自由世界を繰り返すつもりはありません」
「だろうな」
ノアは短く言った。
「だから俺も、見ている」
黒鐘が低く鳴る。
「お前がまた都合よく人間の名前を消すなら、その時は壊しに来る」
「はい」
エルシアは逃げなかった。
許しではない。
和解でもない。
ただ、互いの位置が少し変わった。
グースが、胸元の鈴を指で弾いた。
「いやあ、高い買い物だったね」
「何も払ってないぞ」
「払ったよ」
グースは肩をすくめる。
「みんな、自分の物語を少しずつ」
フロッグが静かに笑った。
「でも、全部ではありません」
白い間が薄れていく。
観測塔の最上層が戻る。
ひび割れた床。
壊れた端末。
遠くで鳴らない黒鐘。
そして、まだ消えない白鐘の気配。
世界は変わった。
けれど、明日から急に優しくなるわけではない。
勇者制度は残る。
女神教会も残る。
魔王というラベルも、たぶん残る。
俺の救済依存も、残る。
視界に、最後のログが開いた。
現在の中心重力:【救済依存】
現在の軌道偏差:1.7%
警告。
あなたは今も、誰かを救おうとしています。
少し前なら、その表示を見ただけで焦った。
また同じだ。
また救おうとしている。
自分は偽物だ。
そう思ったかもしれない。
でも、今は違った。
俺はそのログを見て、隣を見る。
ミオがいた。
救済錨ではなく。
M-17ではなく。
ミアでもなく。
ミオが、自分の足で立っていた。
「救わなくていいです」
彼女は言った。
「一緒に考えてください」
俺は頷いた。
「うん」
言葉は、驚くほど軽かった。
「今度は、そうする」
観測塔の外で、朝の光が差していた。
白鐘はまだ鳴る。
黒鐘も、どこかで音を吸っている。
俺たちは、その間を歩いていく。
ここまで来ても、俺たちはまだ回っている。
愛も、恐怖も、承認も、救済も、消えない。
けれど、もう見えないふりはしない。
同じ場所に戻っているように見えても、高さが違えば、それは螺旋だ。
俺たちはまだ、自由ではない。
それでももう、最初と同じ軌道ではなかった。
第一部 (完)




