第六十六話 魔王はまだそこにいる
「次は俺か」
ノアは、白い間の亀裂のそばに立っていた。
黒鐘の気配が、彼の周囲だけ白を薄くしている。
エルシアは何も言わない。
ノアも、彼女を見ない。
「見ない」
彼は短く言った。
「俺の中心が何だろうと、今さら知ったところで変わらん」
「分かった」
俺は頷いた。
ノアがこちらを見る。
「止めないのか」
「止めない。見る権利には、見ない権利も含まれる」
ノアはしばらく俺を見ていた。
それから、心底つまらなそうに息を吐いた。
「そういうところが、腹立つんだよ」
「すみませんね」
「謝るな。余計腹立つ」
そのやり取りに、カイトが少しだけ笑った。
白い間の緊張が、一瞬だけ緩む。
ノアは黒い亀裂へ手を触れた。
「見るのは俺が決める」
「ああ」
「女神に暴かれるんじゃない。お前に救われるんでもない」
「ああ」
ノアは目を閉じた。
「ノア」
その名が、黒鐘の奥で鳴る。
かつての旧勇者N。
勇者から降りた男。
世界に魔王として表示された転生者。
けれど今、その名前は役割ではなく、彼自身の声で呼ばれた。
自己名宣言を確認。
観測負荷警告を確認。
自己観測同意を確認。
中心重力を表示します。
黒い文字が浮かぶ。
対象:ノア
中心重力:【物語拒絶】
混線項目:
【破壊救済】
注記:
支配構造を破壊することで、他者を救済しようとする反応が高頻度で検出されています。
ノアは笑った。
今度は、楽しそうではなかった。
「ひどい名前だな」
「でも、外れてはいない」
「ああ。外れてない」
ノアは黒鐘を握る。
彼がその気になれば、今この瞬間にも亀裂を広げられる。
白鐘網は弱っている。
エルシアの管理も揺らいでいる。
世界を壊すなら、今が一番近い。
だが、ノアは手を下ろした。
「今日は壊さない」
エルシアの瞳がわずかに動く。
「許したわけじゃない」
ノアは彼女に言った。
「お前を許す日なんか来ない。勇者として使われた俺も、魔王として恐れられた俺も、なかったことにはしない」
「……はい」
エルシアは静かに答えた。
「だが、今壊せば、俺はまた救済者になる」
ノアは自嘲するように笑う。
「世界を壊して、檻から出してやったぞ、と言う顔をする。最悪だ。お前と同じになる」
黒鐘が低く鳴った。
再選択を確認。
対象:ノア
中心重力:【物語拒絶】
混線:【破壊救済】
行動:白鐘網即時破壊を未選択
軌道偏差:更新
ノアはログを睨む。
「俺は魔王を降りない」
彼は言った。
「勇者にも戻らない。許された反逆者にもならない」
黒い外套が、白い間で揺れる。
「俺はここにいる。魔王として表示されたまま、今度は立つ場所を選ぶ」
その言葉に、エルシアは何も返さなかった。
白い間の亀裂は、まだ残っている。
けれど、広がらなかった。




