第五十七話 観測者にも軌道がある
ノアの沈黙のあと、白い間に小さな雑音が走った。
ちりん、と鈴が鳴る。
俺の手の中の沈黙鈴ではない。
グースの胸元に吊られた、古い鈴だった。
彼の輪郭が、わずかに揺れている。
「接続が、まだ残ってる」
グースは苦笑した。
「そりゃそうだよな。僕は、ずっと観測端末だったわけだから」
彼の背後に、いくつもの画面が開いた。
リーベルの路地。
旧保護院。
北東街道。
王国勇者庁。
灰門。
観測塔。
俺たちが通ってきた場所が、彼の目を通して記録されていた。
「僕は見ている側だと思ってた」
グースは言う。
「時々、少しだけ助言して、沈黙鈴を渡して、君たちが自分で選んでいるように見守っているつもりだった」
彼は自分の胸元を押さえた。
「でも、僕も軌道の中にいた。観測する役割。干渉しすぎない役割。失敗を少し減らして、成功しすぎないようにする役割」
彼の背後に、一瞬だけ別の記録が混ざった。
見守った。
助言しなかった。
その結果、救われるはずだった少女が、救われる役割のまま壊れていった記録。
グースは目を伏せる。
「見ているだけなら、罪にならないと思ってたんだ」
対象:グース
旧役割:【観測補助端末】
現在役割:不安定
注記:
自己判断による干渉履歴あり。
「観測者にも、軌道がある」
フロッグが言った。
その声は静かだった。
外側を見た彼の声。
「僕は外側へ出ました」
フロッグはエルシアを見る。
「そこには檻がありませんでした。命令も、役割も、女神の鐘もなかった」
「なら、救いだったはずです」
エルシアが言う。
フロッグは首を振った。
「救いではありません。広さです」
白い間が少しだけ暗くなる。
いや、暗くなったのではない。
白の向こうに、何もない広さが透けた。
名前のない空白。
上も下もなく、前も後ろもない。
どこへ行ってもいい。
だから、どこへ行く理由もない。
「外側には、本当に意味がありません」
フロッグは言った。
「だから、あなたの言うことは分かります。物語が必要な人はいます。役割に支えられている人もいます」
エルシアは黙って聞いている。
「でも」
フロッグの声が、少し強くなる。
「それを隠したまま与える理由にはなりません」
俺は頷いた。
「骨組みが必要なら、骨組みだと教えればいい」
「それを知った時点で、骨組みは骨組みとして機能しなくなります」
エルシアは即答した。
「愛が設計されていたと知れば、人は愛を疑います。使命が与えられていたと知れば、人は使命を疑います。救済が配置されていたと知れば、人は優しさを疑います」
「疑うことが悪いんですか」
ミオが言った。
エルシアの視線が、ミオに向く。
「悪ではありません。重いのです」
「重いなら、重いと知って持ちます」
ミオは小さな声で言った。
「知らないまま軽いふりをさせられるより、ずっといい」
その言葉に、白い間が止まった。
女神の表情は変わらない。
でも、視界の端にログが開く。
管理者応答遅延。
原因:未定義反論
対象発言:
「知らないまま軽いふりをさせられるより、ずっといい」
エルシアが、初めてすぐに答えなかった。
グースが小さく笑う。
「ねえ、女神様」
彼は言った。
「僕ら、壊れやすいかもしれないけどさ」
鈴の音が、白い間に細く残った。
「壊れないように嘘をつかれるほど、何も知らないわけじゃないんだよ」




