第五十六話 魔王の反論
白い間に、黒い罅が入った。
音はなかった。
ただ、白い空間の一部が、内側から押し割られるように歪む。
そこから黒鐘の気配が漏れた。
重く、冷たく、どこか安心するような黒。
「随分と綺麗に喋るな、エルシア」
ノアの声だった。
白い間の壁など最初からない。
それでも、彼は壁を破って入ってきたように見えた。
黒い外套。
疲れた目。
世界から魔王と呼ばれ続けた元勇者。
エルシアは驚かなかった。
「ノア」
その呼び方には、憎しみがなかった。
「保護不能対象N。あなたは、まだ自分を破壊者として保っていますね」
「保っているんじゃない」
ノアは笑った。
「お前がそう表示したんだろう」
彼が手を上げる。
黒い鐘の波が白い間を叩いた。
視界にログが走る。
黒鐘干渉を検知。
対象:白い間
目的:管理領域破砕
管理者権限により減衰。
黒い波は、エルシアの前で薄くなる。
完全には届かない。
だが、白い空間に細かな亀裂が残った。
その亀裂の奥だけ、女神の白が届いていない。
ノアは、それを見てわずかに笑った。
「壊せばいい」
ノアは言った。
「白鐘網も、称号も、救済配置も、勇者も魔王も。全部壊せば、人間はようやく自分の足で立つ」
「立てない者もいます」
エルシアの返事は静かだった。
「立てないようにしたのはお前だ」
「違います」
女神は首を振る。
「最初から立てない者もいるのです。痛みが深すぎる者。孤独が強すぎる者。自分の輪郭を保てない者。誰かに必要とされる役割がなければ、朝を越えられない者」
白い間に映像が浮かぶ。
教会の保護院で、鐘の音に合わせて眠る子供。
勇者に憧れて剣を握る少年。
聖女候補という名に縋って、崩れそうな自分を支える少女。
復讐の物語だけで歩いてきた転生者。
それは、支配されている人々だった。
同時に、支えられている人々でもあった。
「白鐘網を一度に壊せば」
エルシアは言う。
「救われる者もいるでしょう。けれど、意味を失って壊れる者もいます」
「壊れる痛みを恐れて、永遠に檻へ入れるのか」
「壊れる自由を与えることだけが、信頼ではありません」
ノアの目が細くなる。
黒鐘がまた震えた。
だが、今度は彼も撃たなかった。
カイトが歯を食いしばっている。
リセの顔が頭をよぎった。
聖女候補という檻を憎みながら、それでも、その名があったから生き延びた部分がある人。
グースが作った沈黙鈴。
フロッグが見た外側。
全部が、単純な答えを拒んでいる。
ノアの破壊は正しい。
エルシアの保護も、全部間違いとは言えない。
だから、厄介なのだ。
どちらも、人間を見ている。
どちらも、人間を信じ切れていない。
「ノア」
エルシアは静かに言った。
「あなたも私も、人間を信じ切れていないのです」
ノアは黙った。
初めて、彼の顔から笑みが消えた。
だが、白い間に刻まれた黒い亀裂は消えない。
エルシアも、それを消そうとはしなかった。
俺はその沈黙を見て、ようやく分かった。
管理か。
破壊か。
その二択自体が、たぶん女神の用意した檻なのだ。




