第五十五話 私はミアではない
エルシアは、今度はミオを見た。
「ミオ」
その声は優しい。
優しい声で、女神は言う。
「あなたの苦痛記録を、薄めることができます」
ミオの顔色が変わった。
「薄める」
「はい」
エルシアが手をかざす。
白い間に、いくつもの記録が浮かぶ。
ミア。
M-17。
救済錨。
足を怪我した少女。
森で逃げる少女。
勇者を支えた少女。
最後に、自分がいなければ彼は自由だったのかと疑った少女。
その全部が、白い光に包まれる。
「痛みを消すのではありません」
エルシアは言った。
「尖りを取るのです。あなたが自分でいられる程度に」
「それは」
ミオの声が揺れる。
「楽に、なりますか」
「なります」
即答だった。
あまりにも甘い答えだった。
ミオは目を閉じる。
無理もない。
彼女は、見すぎた。
救われた記録。
選べなかった記録。
自分ではない自分の死。
自分が誰かの檻だったかもしれないという疑い。
それらが少しでも薄くなるなら。
楽になるなら。
俺だって、一瞬願ってしまった。
彼女が楽になればいい。
苦しまなくていい。
そう思った。
その瞬間、自分の救済衝動が反応するのが分かった。
助けたい。
楽にしたい。
この痛みから遠ざけたい。
だが、それを俺が選んではいけない。
ミオは目を開いた。
「薄めたら」
彼女は聞いた。
「私は、何を選んだか覚えていますか」
「記録としては残ります」
「記録としてではなく」
ミオの声が少し強くなる。
「私の痛みとして」
エルシアは黙った。
その沈黙が答えだった。
「楽にはなる」
ミオは自分に言い聞かせるように言った。
「でも、私が何を見て、何に怒って、何を怖がったのかが遠くなる」
「あなたを守るためです」
「守られたら、また分からなくなります」
ミオは震えていた。
それでも、立っていた。
「私は、ミアではありません」
白い間に、その声が響く。
「でも、ミアをなかったことにはしません」
エルシアの瞳が揺れる。
「私は、M-17でもありません。でも、M-17と呼ばれていた私を、なかったことにはしません」
ミオは胸に手を当てた。
「私は救済錨かもしれない。でも、それを知らないままレンさんの隣にいる私には戻りません」
視界にログが開く。
対象:ミオ
配置役割:【救済錨】
自己名宣言:【ミオ】
役割と自己名の不一致を確認。
不一致。
それはエラーのようにも見えた。
でも、俺には希望に見えた。
ミオは俺を見た。
「私は、まだレンさんのことをどう思えばいいか分かりません」
「うん」
「でも、それを私のまま考えたいです」
「うん」
胸が詰まる。
エルシアは、そんなミオを悲しそうに見ている。
「痛みを抱えたままでは、あなたは壊れるかもしれません」
「壊れたら」
ミオの声は震えていた。
「その時は、その時の私が助けを求めます」
俺は何も言わなかった。
言いたいことは山ほどあった。
助ける。
支える。
そばにいる。
でも、今それを言うと、また俺の物語になる。
だから、ただ聞いた。
ミオが自分の痛みを、自分のものとして持とうとしているのを。
エルシアは目を伏せた。
「あなたたちは、痛みを選ぶのですね」
ミオは首を振った。
「違います」
彼女は言った。
「痛みを消されないことを選びます」




