第五十二話 完全自由世界
白い間に、別の世界が映った。
緑の平原。
青い空。
町。
森。
海。
山。
どこにでも行ける世界。
女神の鐘はない。
勇者庁もない。
魔王もいない。
救済対象も配置されていない。
白鐘網も、黒鐘も、称号も、ほとんど見えない。
転生者たちは、その世界へ降ろされた。
好きな場所へ行けた。
好きな仕事を選べた。
誰かを救ってもいい。
救わなくてもいい。
戦ってもいい。
恋をしてもいい。
何もしなくてもいい。
理想に見えた。
最初は。
「試行世界、第一群」
エルシアが言う。
「役割付与なし。運命誘導なし。魔王なし。勇者なし。強制イベントなし」
視界に記録が重なる。
試行世界記録:
役割付与なし
運命誘導なし
中心重力干渉なし
初期満足度:高
転生者たちは喜んでいた。
もう誰にも命じられない。
自由だ。
何でもできる。
その顔は、本当に明るかった。
だが、映像は進む。
一ヶ月。
三ヶ月。
一年。
何でもできる世界で、彼らは少しずつ止まり始めた。
剣を学んだ者は、自分が本当に剣を選びたかったのか分からなくなる。
商売を始めた者は、別の道を選んだ自分を想像して眠れなくなる。
誰かと恋をした者は、無数にいたはずの別の相手を思って苦しくなる。
何もしなかった者は、自分が何者でもないことに耐えられなくなる。
映像の中に、一人の男が映った。
名も知らない転生者。
彼は毎朝、宿の扉の前で立ち尽くしていた。
冒険者になるか。
商人になるか。
畑を借りるか。
旅に出るか。
誰かに会うか。
今日は休むか。
何でも選べる。
だから、何も選べない。
個別記録:
対象:試行世界転生者 F-08
自由選択権:保持
役割干渉:なし
結果:
決定不能状態が継続。
自己評価低下。
自己物語形成失敗。
男は、誰にも縛られていなかった。
それなのに、扉を開けられなかった。
「選択肢が多すぎる」
フロッグが小さく言った。
「選んだあとも、選ばなかったものが残り続ける」
エルシアは頷く。
「人は、選択の自由だけでは幸福になりません」
映像の中で、転生者たちは互いを見始めた。
あいつは成功した。
自分は何もできていない。
あの選択が正解だったのではないか。
なぜ自分には使命がないのか。
なぜ誰も自分を必要としないのか。
比較。
孤独。
虚無。
怒り。
それらが、勇者や魔王がいない世界で、別の形の魔物のように増えていく。
試行世界記録:
初期満足度:高
中期安定度:低下
自己物語形成率:低
虚無反応:増加
対人比較反応:増加
カイトが顔を歪めた。
「追放されなくても、人は勝手に見返したくなるのか」
「ええ」
エルシアは答える。
「敵がいなくても、人は敵を作ります。使命がなくても、使命を探します。愛が設計されていなくても、愛に意味を求めます」
「だから、あなたが作った?」
俺の声は低くなる。
「敵も、使命も、愛も」
「はい」
迷いのない返事。
映像はさらに進む。
自由な世界の町で、暴動が起きていた。
理由は一つではない。
選ばれなかった怒り。
自分の人生に意味がないという恐怖。
誰にも必要とされない孤独。
自由を与えられたのに幸福になれなかった屈辱。
彼らは、女神を責めた。
世界を責めた。
他人を責めた。
自分を責めた。
そして壊れていった。
試行世界記録:
役割付与なし
運命誘導なし
結果:
自己物語崩壊
共同体崩壊
転生者生存率:低
世界維持熱:不足
判定:失敗
失敗。
その二文字が、白い間に浮かんだ。
エルシアは目を伏せる。
「私は、人間を自由にしました」
声は静かだった。
「そして、人間は幸福になりませんでした」
言い返したかった。
でも、何も出なかった。
映像に映った人たちの苦しみは、本物だった。
女神が都合よく作った嘘だ、と切り捨てるには、あまりにも生々しかった。
ミオが小さく言う。
「だから、檻を作ったんですか」
「骨組みを作りました」
エルシアは答える。
「人が、自分という物語を失わないために」




