第五十一話 女神は悲しんでいる
女神エルシアは、怒っていなかった。
それが一番怖かった。
白い光の中で、彼女は俺たちを見ていた。
銀の髪。
淡い金の瞳。
慈愛に満ちた微笑み。
白い間で、俺に第二の人生を差し出した時と同じ顔。
だが、今なら分かる。
あれは最初から、安心させるための表情だった。
安心させて、選ばせるための顔。
「そこまでです」
エルシアはもう一度言った。
「これ以上の閲覧は、あなた方の自己境界を破壊します」
「保護ですか」
俺が言うと、エルシアは静かに頷いた。
「はい」
「便利な言葉ですね」
「便利だから使っているのではありません。必要だから使っています」
声は穏やかだった。
だからこそ、こちらの怒りが空振りする。
「俺たちの記録を隠して、記憶を消して、役割に戻すことが保護ですか」
「時には」
即答だった。
俺は息を呑む。
エルシアは俺ではなく、ミオを見た。
「ミオ」
彼女はそう呼んだ。
ミアではなく。
M-17でもなく。
救済錨でもなく。
ミオ。
そのことに、ミオ自身も少しだけ揺れた。
「あなたの名を否定するつもりはありません」
エルシアは言う。
「あなたは、ミオです」
「なら」
ミオの声は震えていた。
「どうして、私をミアにしたんですか」
白い空間が、少しだけ静かになる。
エルシアの微笑みが薄くなった。
「ミアも、あなたでした」
「違います」
ミオは即答した。
「ミアの痛みはあります。記録もあります。でも、私はミアではありません」
その声は大きくない。
でも、白に負けていなかった。
俺は沈黙鈴を握る。
レン。
隣で、ミオが自分の名前を掴んでいる。
なら俺も、今ここにいる自分で立たなければいけない。
エルシアは悲しそうに目を伏せた。
「そう言えるほど、あなたは強くなりました」
「強くしたのは、あなたですか」
「いいえ」
エルシアは首を振る。
「あなた自身と、あなたの周囲の人々です」
「なら、邪魔しないでください」
ミオの言葉に、エルシアはすぐには答えなかった。
白い光が、少しだけ揺れる。
グースが後ろで小さく息を呑んだ。
フロッグは黙っている。
カイトは剣に手を置いたまま、動けずにいた。
この場で剣は意味を持たない。
それでも、何かに手を置いていないと耐えられないのだろう。
エルシアはゆっくり手を上げた。
世界が白く塗り替わる。
観測塔の最上層が消えた。
代わりに現れたのは、懐かしいほど嫌な場所。
白い間。
床も壁も天井もない。
ただ白だけが続く空間。
管理者エルシアによる一時保護領域を展開。
名称:【白い間】
目的:
自己物語崩壊の防止
対話による分岐再整理
「分岐再整理」
俺は笑った。
乾いた声だった。
「また俺たちを棚に戻すんですか」
「戻すのではありません」
エルシアは言った。
「壊れない選択肢を提示します」
「壊れないように、選ばせる」
「はい」
その正直さが、ひどく怖かった。
エルシアは悲しんでいる。
俺たちを壊したいわけではない。
だからこそ、彼女は迷わず檻を作る。
白い間の中央で、女神は静かに言った。
「あなたたちは、自由を求めているのではありません」
「勝手に決めるな」
「では聞きます」
エルシアの金の瞳が、俺を見る。
「完全な自由を与えられた時、人は何を選べばよいのでしょう」
その問いに、すぐ答えられなかった。
エルシアは手をかざす。
「見せましょう。私が、なぜ物語を作ったのかを」




