第五十話 観測してはいけない
観測塔の最上層は、白かった。
白い間に似ている。
床も壁も天井もあるはずなのに、境界が曖昧だった。
どこまでも続いているようで、すぐそこで終わっているようでもある。
中央には、一つの記録球が浮かんでいた。
水盤ではない。
紙でもない。
光の塊。
その中に、無数の文字が折り畳まれている。
近づくだけで、頭の奥が痛む。
未閲覧原記録を確認。
対象:レン
関連対象:ミオ
関連管理者:エルシア
記録名:
第143周回終了処理
第143周回終了処理。
聖癒の勇者レイン伝の終わり。
レインが記憶を消された瞬間。
ミアが配置記録へ統合された瞬間。
女神エルシアが何をしたのか。
その記録が、目の前にあった。
手を伸ばせば届く。
伸ばしたくない。
伸ばさなければならない。
その二つが、同時にある。
ミオは隣にいた。
近すぎない距離。
でも、同じ記録を見ている距離。
「レンさん」
「うん」
「私を理由にしないでください」
「うん」
「でも、私も見ます」
その声は震えていた。
でも、逃げていなかった。
「自分の記録に関係しているから」
「うん」
俺は記録球を見る。
手を伸ばす。
触れた瞬間、世界が反転した。
白い部屋。
膝をつくレイン。
倒れているミア。
魔王ノアの黒い影。
そして、女神エルシア。
彼女は、優しく微笑んでいた。
あの白い間で見たのと同じ笑み。
安心する角度を計算し尽くしたような笑み。
「よく頑張りました」
エルシアが言う。
レインは顔を上げる。
目は虚ろだった。
泣きすぎた後の目。
「ミアは」
「彼女の記録は保存されます」
「保存じゃない」
レインの声は掠れていた。
「返してくれ」
「あなたには、次があります」
次。
その言葉が、白い部屋に落ちる。
レインは笑った。
壊れた笑いだった。
「次じゃない」
彼は言う。
「俺は、今の彼女を」
言葉は最後まで続かなかった。
エルシアが手を伸ばす。
白い光が、レインの額に触れる。
記憶初期化処理を開始。
対象:レイン
理由:
物語継続困難
中心重力損傷
次周回への再配置
やめろ。
記録の中の俺が思ったのか。
今の俺が思ったのか。
分からない。
ミオが隣で息を詰める。
記録の中のミアは動かない。
だが、その周囲にも文字が浮かぶ。
対象:ミア
処理:配置記録へ統合
次周回役割候補:
救済錨
同行者
感情安定因子
「やめて」
ミオの声がした。
今のミオの声だ。
記録には届かない。
それでも、彼女は言った。
「私を、そんなふうにしまわないで」
記録の中のエルシアは微笑む。
「大丈夫です」
誰に向かって言ったのか分からない。
レインか。
ミアか。
それとも、記録を見ている俺たちか。
「あなたたちは、また出会えます」
優しい声だった。
優しいから、吐き気がした。
レインの記憶が白くほどけていく。
ミアの記録が折り畳まれていく。
その瞬間、今の俺の頭にも白い痛みが走った。
観測酔いを検知。
自己境界:低下
過去周回記録との混線:進行中
俺は膝をつきかける。
ミオも壁に手をついた。
記録の中のレインの感情が流れ込む。
失いたくない。
忘れたくない。
救えなかった。
次なんていらない。
それが、今の俺の感情と混ざる。
どこまでがレインで、どこからがレンなのか分からなくなる。
「ミア」
口から出かけた名前に、俺は凍った。
違う。
違う。
隣にいるのはミアではない。
ミオだ。
今ここにいる、ミオ。
だが、記録の中の感情が叫ぶ。
ミアを返せ。
ミアを失いたくない。
ミアがいないなら次なんていらない。
その叫びが、俺の喉を使おうとする。
ミオも顔を歪めていた。
「私は」
彼女は自分の胸を押さえる。
「ミアじゃない」
声が震えている。
「ミアの痛みは、ある。でも、私は」
沈黙鈴を握る。
レン。
レン。
レン。
名前を鳴らす。
だが、白い光が強い。
記録球の奥で、エルシアがこちらを見た。
記録の中の女神ではない。
今、こちらを見た。
空間が凍る。
グースが後ろで呻く。
「見つかった」
フロッグが小さく言う。
「来ます」
白い光が、人の形を取る。
銀の髪。
淡い金の瞳。
慈愛に満ちた微笑み。
女神エルシア。
彼女は、白い間で見た時と同じ声で言った。
「そこまでです」
視界が白い文字で埋まる。
管理者権限による閲覧停止。
対象:レン
対象:ミオ
警告:
これ以上観測してはいけません。
あなたたちは、自分という物語を失います。
エルシアは俺たちを見ていた。
怒ってはいない。
悲しんでいるようにも見える。
それが、一番怖かった。
「これ以上観測してはいけません」
女神は言った。
「あなたたちは、自分という物語を失います」
白い光の中で、俺は沈黙鈴を握る。
レン。
そう思った。
隣で、ミオが小さく言う。
「私は、ミオです」
その声だけが、白に塗り潰されずに残った。
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