第四十九話 外側を見たカエル
フロッグは、階段の前で止まっていた。
いつもの軽さがない。
皮肉もない。
目だけが、塔の上を見ている。
「怖いんですね」
俺が言うと、フロッグは頷いた。
「とても」
正直だった。
フロッグが怖がる。
それだけで、上層にあるものの重さが分かる。
グースは黙っていた。
カイトも茶化さない。
ミオは水盤から少し離れ、壁に手をついている。
顔色はまだ悪い。
それでも、フロッグの話を聞こうとしていた。
「昔、私は上まで行きました」
フロッグは言った。
「観測塔の最上層。その先に、ほんの小さな裂け目がありました」
「外側ですか」
「ええ」
彼は目を閉じる。
「そこには、自由があると思っていました」
自由。
この物語で、何度も出てきた言葉。
でも、誰も完全には掴めていない言葉。
「実際には?」
ミオが聞いた。
「広さがありました」
フロッグは答えた。
「ただ、広い。どこへ行ってもいい。何になってもいい。何にもならなくてもいい。誰も呼ばない。誰も止めない。誰も期待しない」
フロッグの声に合わせて、水盤の表面に壊れた映像が走った。
白い広野。
地平線がない。
空も地面も、同じ白で繋がっている。
その中に、無数の扉だけが浮かんでいた。
勇者になる扉。
商人になる扉。
誰とも出会わない扉。
誰も救わない扉。
何もしないまま終わる扉。
どれも開いている。
どれも呼んでいない。
風もなく、音もなく、ただ選べるという事実だけが無限に並んでいた。
それは、救いのようにも聞こえた。
同時に、怖かった。
「意味がなかった」
フロッグの声は低い。
「完全な自由は、光ではありませんでした。むしろ、方向のない白さに近かった」
白い間。
女神の部屋を思い出す。
あそこも、どこまでも白かった。
「私は、そこで少しだけ壊れました」
「少しだけ?」
カイトが聞く。
「全部壊れたら帰ってこられません」
フロッグは薄く笑った。
いつもの笑いに似ている。
でも、疲れていた。
「戻ってきた時、私は物語に入れなくなっていました。勇者にも、賢者にも、敵にも、導き手にも、うまく分類されない」
視界にログが開く。
外側観測記録:破損
閲覧者:フロッグ
結果:帰還
注記:
帰還後、対象は物語適性を喪失しています。
物語適性を喪失。
だから、フロッグはいつも少し外にいるのか。
仲間なのに、中心に入らない。
助けるのに、救済者にならない。
説明するのに、導師として固定されない。
「女神エルシアの言うことは、全部嘘ではありません」
フロッグは言った。
その言葉は意外だった。
「人は、意味のない広さに耐えられないことがある。役割があるから立っていられる人もいる。物語があるから、朝起きられる人もいる」
ノアの顔が頭に浮かぶ。
白鐘網を壊す男。
女神を否定する男。
でも、フロッグはその先の怖さを見ている。
「だから、女神が正しいと?」
「いいえ」
フロッグは即答した。
「見せずに縛ることと、見た上で選ぶことは違います」
その言葉は、静かに塔へ響いた。
「人は完全な自由では壊れるかもしれない。でも、だからといって、誰かが黙って檻を作っていい理由にはならない」
ミオが顔を上げた。
「見た上で選ぶ」
「ええ」
フロッグは彼女を見る。
「ただし、見ることにも代償があります。見た後の自分は、見なかった頃の自分には戻れない」
ミオは小さく頷いた。
「もう、戻れません」
誰も否定しなかった。
俺もだ。
俺たちはもう、最初と同じ場所には戻れない。
上層から、白い光が強くなる。
塔の壁に、女神の紋章が薄く浮かび上がった。
グースが顔を歪める。
「接続が強い。これ以上は、女神様が直接止めに来る」
「止められる前に見る」
俺が言うと、ミオがこちらを見た。
「何を」
「俺が消された瞬間」
第143周回終了処理。
記憶初期化。
実行者、エルシア。
まだ見ていない、一番奥の記録。
それを開けば、女神が何をしたのか分かる。
俺が何を失ったのか。
ミオが何を奪われたのか。
全部ではなくても、近づける。
ミオは少しだけ黙った。
そして言った。
「私を理由にしないでください」
胸が痛む。
「うん」
「私のために見るんじゃなくて、レンさんが見ると決めてください」
「分かった」
俺は頷く。
「俺が見る」
フロッグは階段から一歩離れた。
「では、行きましょう」
「怖いのに?」
「怖いから、今度は一人では行きません」
その言葉に、少しだけ救われた。
俺たちは階段を上った。
上へ。
観測塔の最上層へ。
白い光の中へ。




