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第四十一話 黒鐘の朝

 黒鐘の朝は、静かだった。


 鳥の声はある。


 人の足音もある。


 鍋の音も、薪を割る音もある。


 それなのに、世界全体が少しだけ綿で包まれているように感じる。


 白鐘の音がない。


 ただそれだけで、朝はこんなに違う。


 俺は村の井戸端で顔を洗った。


 冷たい水が、皮膚を刺す。


 鏡代わりの水面には、いつも通りの顔が映っている。


 勇者候補の顔でもない。


 魔王候補の顔でもない。


 たぶん、寝不足の男の顔だ。


「ひどい顔」


 背後から声がした。


 カイトだった。


「あなたも似たようなものですよ」


「俺は元からだ」


「便利な言い訳ですね」


 カイトは隣に座った。


 意外にも、しばらく黙っていた。


「昨日のあれ」


「どれですか」


「檻の話」


 逃げたい話題だった。


 でも、逃げるには近すぎる。


「お前、よく殴らなかったな」


「殴ったら楽だったので」


「分かる」


 カイトは短く言った。


「楽な方に走ると、だいたい世界が喜ぶ」


 追放者の言葉は、重みが違う。


 俺は井戸の水を見る。


「ミオに何て言えばいいのか分からない」


「分からないって言ったんだろ」


「それだけで足りるとは思えない」


「足りなくても、それしかない時もある」


 カイトらしくない言葉だった。


 いや、彼らしいのかもしれない。


 何度も怒りで処理してきた人間だから、怒りで処理できない場面の重さを知っている。


 広場の向こうで、ミオがリセと話していた。


 以前なら、俺はすぐに近づいただろう。


 ミオの足は痛むか。


 大丈夫か。


 何かあったか。


 そう言って、彼女の周りに自分の心配を置いただろう。


 今は、立ち止まる。


 それが優しさなのか臆病なのかは、まだ分からない。


 リセがミオの包帯を巻き直している。


「離れて歩くことも、選択です」


 リセの声が聞こえた。


「嫌いになったという意味ではありません」


 ミオは小さく頷いた。


「でも、離れると、置いていかれる気がします」


「置いていかれない距離を、自分で決めるんです」


 リセは包帯を結ぶ。


「誰かが差し出した手に、すぐ掴まらなくてもいい。掴まないことと、拒絶することは違います」


 ミオは何も言わなかった。


 でも、その言葉を聞いていた。


 俺も聞いていた。


 胸が痛かった。


 だが、必要な痛みだった。


 フロッグは村の端で黒鐘を見上げていた。


 朝から妙に静かだ。


「フロッグさん」


 声をかけると、彼は振り向いた。


「観測塔、そんなに嫌ですか」


「嫌ですね」


「理由は」


「昔、上まで行ったので」


 さらっと言った。


 だが、目は笑っていなかった。


「上には何が」


「外側が少し」


 それ以上は言わなかった。


 聞くのは、たぶんまだ早い。


 村の入口から、小さな影が走ってきた。


 リュカだった。


 北東街道で別れた魔族の少年。


 肩にはまだ包帯がある。


「生きてたか」


 俺が言うと、リュカは不機嫌そうに眉を寄せた。


「勝手に殺すな」


「元気そうで何より」


「人族みたいな言い方をするな」


「俺、人族なので」


 リュカはさらに嫌そうな顔をした。


 その手には、黒い木片が握られている。


「ノア様から旧道の印」


 木片には、黒鐘と同じ質感の刻印があった。


「観測塔へ行くなら、白い石を踏むな。道に見えるものほど、道じゃない」


「助言が不穏ですね」


「観測塔はそういう場所だ」


 リュカはミオをちらりと見た。


「そいつも行くのか」


 ミオは立ち上がった。


「行きます」


「救われるために?」


 リュカの言葉に、俺の体がわずかに動いた。


 だが、止める。


 ミオは自分で答えた。


「読むために」


 リュカは少しだけ黙り、それから頷いた。


「なら、迷うな」


 それだけ言って、木片を渡した。


 その瞬間、黒鐘が小さく揺れる。


 音はしない。


 だが、遠くで白い音が戻り始める気配がした。


 視界にログが開く。


白鐘網再接続を確認。

追跡対象:

【魔王候補】

【救済錨】


推定到達時間:三時間


 三時間。


 朝の猶予は、それだけだった。


 ミオは俺を見る。


 すぐ隣ではない。


 でも、目は逸らしていない。


「行きましょう」


「うん」


 俺は頷く。


 手は差し出さなかった。


 ミオも求めなかった。


 それでも、同じ道へ向かって歩き出した。


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