第三十九話 世界を壊す救済
ノアが見せた地図は、普通の地図ではなかった。
羊皮紙に描かれた王国。
街道。
教会。
ギルド。
保護院。
王都。
その上に、白い点が無数に打たれている。
白鐘網。
女神教会の鐘だけではない。
ギルド端末。
勇者庁の記録板。
保護院の白鐘子機。
街道の祈念塔。
王都門前の大鐘。
全部が細い線で繋がっている。
まるで、世界そのものに張られた蜘蛛の巣だった。
「これを壊す」
ノアは言った。
簡単なことのように。
「壊したら、どうなる」
俺が聞くと、彼は即答しなかった。
それが、嫌な答えだった。
「勇者制度は止まる」
「他には」
「魔王制度も止まる」
「他には」
ノアは俺を見る。
「転生者の軌道補正も大きく乱れる」
「他には」
畳みかけると、リセが静かに口を挟んだ。
「世界の一部で、物語熱の循環が止まります」
ノアは否定しなかった。
「物語熱」
ミオが呟く。
フロッグが説明する。
「人が強い意味を感じて動く時に生まれる熱です。承認、怒り、救済、恋愛、復讐、使命。女神システムはそれを世界維持に使っている」
「それが止まると」
「場所によっては、生活が崩れます。魔物の発生規則、天候、結界、治癒術の安定。全部が物語熱と無関係とは言えません」
リセは地図の端を指した。
「北の村は、勇者伝承を核にした結界で魔物を避けています。白鐘網が落ちれば、結界も落ちるかもしれません」
別の点を指す。
「巡礼街道の治癒院は、聖女譚に接続した治癒術を使っています。癒やしの奇跡が消えれば、助からない人も出ます」
さらに別の白い点。
「雨乞いの祭りも、豊穣の祝詞も、全部がただの迷信とは言い切れません。女神の支配は嫌いです。でも、その支配に寄りかかって生きている人もいます」
リセの声は、ノアを責めているわけではなかった。
たぶん、何度も同じ話をした声だ。
ノアは黙っている。
つまり、分かっている。
分かった上で壊すと言っている。
「それは救済か」
俺が聞くと、ノアの目が少しだけ鋭くなった。
「支配よりはましだ」
「まし、で世界を壊すのか」
「壊さなければ、次の勇者が来る」
「来たら止める」
「何度?」
ノアの声が低くなる。
「何度止める。何度説得する。何度、救われるために置かれた人間を助ける。何度、魔王にされた誰かの話を聞く」
言葉が刺さる。
「お前はまだ一度目のつもりで怒っている。だが、俺は何度も見た」
「俺も何度も」
「覚えていないだろう」
返せなかった。
俺の過去周回はログでしかない。
ノアの疲労は、本人の記憶だ。
その差は大きい。
カイトが地図を見る。
「白鐘網を壊したら、俺みたいな追放者ルートも止まるのか」
「かなり弱まる」
「なら壊せ」
即答だった。
でも、カイトはすぐに顔を歪めた。
「と言いたいところだが」
「が?」
「俺の気持ちよさのために誰かが壊れるのは、もう見飽きた」
その言葉は、彼なりの成長だった。
ノアはカイトを見る。
「追放者か」
「元だ。たぶん」
「元を名乗れるうちは、まだ戻れる」
「戻りたくねえよ」
「戻る場所の話じゃない。自分の中へだ」
カイトは嫌そうに黙った。
ミオが地図に近づく。
白い点の一つに、旧リーベル保護院があった。
小さな文字。
M系列保護対象配置拠点。
ミオの指が止まる。
俺は、その文字を見なかったことにしたくなった。
でも、もう遅い。
ミオは見ていた。
「M系列」
彼女の声は小さい。
ノアが言う。
「保護対象の系統だ。救済、同行、信頼形成に使われる」
「使われる」
ミオが繰り返す。
その声に感情は少なかった。
少ないから、怖かった。
俺は口を開く。
「ミオ」
「大丈夫です」
彼女はそう言った。
俺がよく使う、あまり信用できない言葉で。
ノアは俺を見た。
「お前は女神を否定しているつもりで、同じ形の救済をしている」
「違う」
「本当に?」
ノアの声は静かだ。
「女神は、人間を自由から守るために物語を与える。お前は、目の前の人間を苦痛から守るために手を伸ばす」
「同じじゃない」
「動機は違う。規模も違う。だが、相手が何を選ぶかより先に、自分が救いたいものを見ている瞬間がある」
胸の奥が冷たくなる。
否定したい。
でも、完全には否定できない。
ミオを助けた。
何度も助けた。
今も、傷つく前に言葉で庇おうとしている。
それは優しさだ。
同時に、俺の恐怖でもある。
「壊すことと救うことは違う」
俺は言った。
「ああ」
ノアは頷く。
「だから俺は、救うとは言わない」
彼は地図の白い点に手を置いた。
「壊すと言っている」
その正直さが、怖かった。
女神は保護と言う。
教会は救済と言う。
勇者庁は名誉と言う。
ノアだけが、壊すと言う。
だが、正直なら許されるわけではない。
俺は地図を見る。
白鐘網。
その中に、確かに人がいる。
支配されている人。
守られている人。
役割に苦しむ人。
役割で生き延びている人。
全部まとめて壊していいとは思えなかった。
ノアが静かに言った。
「では、お前はどうする」
「まだ分からない」
「分からないまま人を救うのか」
「分かったふりで世界を壊すよりは」
ノアの目が少しだけ動いた。
怒ったのか。
少し楽しんだのか。
分からない。
「いい答えだ」
彼は言った。
「甘いがな」
黒鐘が揺れる。
音のない鐘の下で、ノアは最後にこう言った。
「なら次は、お前の一番甘い場所を見る」




