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第三十八話 物語から降りた勇者

 ノアは、村の外れへ俺たちを案内した。


 そこには石碑があった。


 墓ではないらしい。


 名前が刻まれていない。


 ただ、役割だけが削られている。


 勇者。


 魔王。


 聖女。


 反逆者。


 追放者。


 救済対象。


 削られた文字の跡が、石の表面にいくつも残っていた。


「昔、俺は勇者だった」


 ノアは石碑の前で言った。


「女神に選ばれ、スキルを与えられ、仲間と出会い、魔王討伐へ向かった」


「順調な物語ですね」


「ああ。順調すぎた」


 彼は笑わない。


「出会う仲間は、俺に必要な傷を持っていた。助けた村は、俺が自分を正しいと思うのに都合がよかった。敵は、俺が怒るための言葉を選んで喋った」


 聞き覚えがありすぎる。


 俺の救済。


 カイトの追放。


 ミオの保護院。


 全部、中心重力に合わせて配置されている可能性。


「最初は気づかなかった」


 ノアは続ける。


「気づく必要がなかった。称賛された。感謝された。仲間に頼られた。世界は俺を必要としているように見えた」


「それが嘘だったと?」


「全部が嘘ではない」


 ノアは即答した。


 意外だった。


「助けた村人は、本当に泣いていた。仲間は本当に笑っていた。傷も、感謝も、死も、本物だった」


「なら」


「本物だから厄介なんだ」


 風が吹く。


 黒鐘の圏内では、風の音も少し遠い。


「作り物なら壊せる。偽物なら捨てられる。だが本物の痛みを使って、人を物語へ縛る仕組みは、簡単には否定できない」


 その言葉は、俺の奥に沈んだ。


 北東街道の商隊。


 リュカ。


 保護院の少年。


 全部、本物だった。


 だから助けた。


 だから罠になった。


「俺の討伐対象は、魔王エルドと呼ばれていた」


 ノアは石碑を見る。


「会ってみると、ただの老人だった」


「老人?」


「元賢者候補。世界の仕組みを見すぎて、魔王に分類された男だ」


 カイトが舌打ちした。


「何でもありだな」


「分類には便利さしかない」


 ノアは続ける。


「俺はエルドを倒せなかった。倒さなかった。話を聞いた。世界は、俺のその選択を処理できなかった」


「それで」


「勇者記録に、魔王討伐成功と記された」


 意味が分からなかった。


「成功?」


「ああ。俺が魔王を討った記録がある」


「でも、拒否した」


「拒否した記録もある」


 視界にノイズが走る。


 まるで、システムそのものがその矛盾を嫌がっているように。


過去周回記録と現行記録の不一致を確認。

魔王討伐成功ログ:存在

討伐拒否ログ:存在


注記:

同一周回内に矛盾記録があります。


「同一周回内に矛盾」


 俺は呟く。


 ノアは頷いた。


「物語としては、勇者が魔王を倒す必要があった。現実としては、俺が倒さなかった。その二つを無理やり両立させるために、記録は分かれた」


「そしてあなたが魔王に」


「討たれた魔王の役割が空いたからな」


 胸が冷える。


 勇者が魔王を倒す。


 その物語を維持するために、倒さなかった勇者が、次の魔王になる。


 あまりにも綺麗な地獄だった。


 フロッグが石碑を見る。


「役割は保存される。中身が変わるだけ」


「そうだ」


 ノアは言った。


「だから、勇者を倒しても終わらない。魔王を倒しても終わらない。物語の枠が残る限り、誰かが次の中身になる」


「女神エルシアがそれを」


「管理している」


 はっきり言った。


 ノアの声には怒りがあった。


 だが、怒鳴らない。


 長く燃え続けて、温度だけが残った怒り。


「女神は人間を憎んでいない」


 ノアは言った。


「むしろ、愛しているつもりだ。人間は意味のない自由に耐えられない。だから、愛、敵、使命、出会い、別れを与える。そう言う」


 エルシアの微笑みが浮かぶ。


 白い部屋。


 第二の人生。


 選択可能スキル。


 全部、親切な形をしていた。


「なら、あなたはどうしたいんですか」


 ミオが聞いた。


 ノアは彼女を見る。


「降りた」


「物語から?」


「ああ」


「降りた後は」


 ミオの声は静かだった。


「どう生きるんですか」


 ノアは少しだけ黙った。


 その沈黙が、答えの一部だった。


「難しい」


 彼は言った。


「役割から降りると、誰も道を示してくれない。敵も、報酬も、運命の相手も、次の目的地も消える」


 ラベル剥がれの村。


 誰もヒロインとして扱わない場所。


 自由。


 そして、意味の空白。


「それでも」


 ノアは石碑に手を置いた。


「他人が書いた物語で正しく生きるくらいなら、自分で迷った方がましだ」


 その言葉には、強さがあった。


 だが、同時に危うさもあった。


 カイトが低く言う。


「迷った末に、どこへ行く」


 ノアは答えた。


「白鐘網を壊す」


 黒鐘が揺れた。


 鳴らないまま、空気だけが沈む。


「女神が人に物語を与えるなら、その音を止める」


 俺はノアを見る。


 この人は、世界の仕組みを見抜いている。


 だが、見抜いた人間が必ず正しいわけではない。


 それも、たぶんこの章で知るべきことだった。


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