第三十七話 魔王ノア
魔王は、玉座に座っていなかった。
黒い城もない。
燃える空もない。
配下の軍勢もいない。
村の広場に、黒い外套の男が一人立っていた。
年齢は、俺より少し上に見える。
黒髪。
灰色の目。
顔立ちは整っているが、威圧感より先に疲労が見えた。
何度も眠り損ねた人間の目。
それが、魔王ノアだった。
「来たか」
彼は言った。
声は低い。
だが、思ったより普通だった。
「勇者候補で、魔王候補の新人」
「最悪の呼び方ですね」
「正確だ」
「正確なら何を言ってもいいわけじゃない」
ノアは少しだけ笑った。
「口が回る。まだ壊れていないな」
「壊れてたまるか」
「そう言って壊れたやつを何人も見た」
軽い言葉ではなかった。
ノアは村の入口を一度だけ見た。
「白鐘の追跡糸を剥がしたそうだな」
「見てたんですか」
「黒鐘が揺れた」
「盗み見では」
「魔王らしいだろ」
「開き直り方が雑ですね」
「だが、悪くない。役割で返事をしないという発想は、勇者にはなかなか出ない」
褒められている気がしない。
だが、ノアの声に嘲りはなかった。
村人たちは遠巻きに見ている。
ひれ伏す者はいない。
魔王様と叫ぶ者もいない。
リセだけが、少し頭を下げた。
敬意はある。
信仰ではない。
その距離感が、魔王領らしいのかもしれない。
俺はノアを見る。
視界にログが開こうとして、乱れた。
対象:ノア
種別:閲覧不可
職業:閲覧不可
危険度:閲覧不可
黒鐘圏の影響により表示精度が低下しています。
「見えにくいか」
ノアが言った。
「分かるんですか」
「昔は俺も見ていた」
「万能鑑定を?」
「似たようなものだ」
彼は俺の腰の沈黙鈴を見る。
「それをまだ持っているのか」
「知ってるんですね」
「あの鳥は、昔から余計なものを売る」
グースのことだ。
やはり繋がっている。
だが、味方同士という感じでもない。
古い腐れ縁。
そういう距離に聞こえた。
カイトがノアを睨む。
「あんたが魔王か」
「そう表示されている」
「質問の答えになってねえ」
「なら答える。俺は魔王になった覚えはない」
ノアは広場の黒鐘を見上げた。
「勇者を降りたら、魔王として表示された。それだけだ」
分かっていた。
予想していた。
旧勇者N。
塗り潰された肖像。
魔王記録への移管。
全部、その答えを指していた。
それでも、本人の口から聞くと重い。
「あなたが、旧勇者N」
ミオが言った。
ノアは彼女を見た。
その目が、一瞬だけ細くなる。
「教会文字を読む子か」
ミオの体が強張った。
「知っているんですか」
「記録で見た」
「私の?」
「似た記録を、いくつも」
ミオは黙った。
俺は一歩前へ出る。
「ミオを記録で呼ぶな」
ノアは俺を見る。
静かな目だった。
「それだ」
「何が」
「お前の重力だ」
胸の奥を掴まれたような気がした。
ノアは続ける。
「守る。庇う。名を与える。相手を記録から引き剥がす。それは優しさだ。だが、同時に鎖になる」
「分かったように」
「分かるさ」
ノアの声は低い。
「俺も、そうだった」
俺は何も言えなくなった。
フロッグが横で小さく息を吐く。
「自己紹介から急所を刺してくるタイプですね」
「時間がない」
ノアは言った。
「王都の白鐘網は、お前が灰門を通ったことをまだ完全には掴んでいない。だが半日もすれば追ってくる」
「何のために呼んだ」
「お前が、勇者になる前に」
ノアは俺をまっすぐ見た。
「あるいは、魔王にされる前に」
その言い方。
まるで二つは別の結末ではなく、同じ道の途中にあるようだった。
俺は聞いた。
「あなたは前回、俺の討伐対象だった」
ノアの表情は変わらない。
「だろうな」
「覚えてないんですか」
「お前を?」
「はい」
「何度も来た勇者の一人としてなら」
背筋が冷えた。
何度も。
それは、俺の過去周回のことか。
それとも、俺以外の転生者たちのことか。
「俺は、あなたを殺したんですか」
「殺した記録はある」
「記録は」
「真実とは限らない」
ノアはそう言った。
その瞬間、黒鐘が揺れた。
音はない。
でも、視界のログが無理やり開く。
対象:ノア
過去分類:【勇者】
現在分類:【魔王】
注記:
分類変更者:閲覧不可
勇者。
魔王。
同じ人物に貼られた、二つのラベル。
ノアは、その表示が見えているかのように笑った。
「な?」
「何がです」
「表示されたものを、人は真実だと思う」
彼は自分の胸を指した。
「俺も昔、それを信じていた」
魔王ノア。
旧勇者N。
世界から降りた男。
その男は、俺に向かって静かに言った。
「話そう。俺がどうやって、物語から降りたのかを」




