第三十六話 ラベルはがれの村
灰門を抜けた先は、荒野ではなかった。
瘴気もない。
骸骨も転がっていない。
空は普通に青く、草は普通に風に揺れている。
王都側と違うのは、音だった。
白鐘の余韻がない。
どこかで誰かに見られているような、薄い圧がない。
それだけで、世界が少し広くなったように感じる。
同時に、少し怖い。
押されていない。
追われていない。
なら、自分で歩くしかない。
「変な場所ですね」
ミオが言った。
「怖いか」
「怖いです。でも、教会の怖さとは違います」
「どう違う」
「教会は、私を知っているふりをしてきました」
ミオは少し考える。
「ここは、私を知らない感じがします」
それは、良いことなのか悪いことなのか。
すぐには分からない。
灰門から続く細い道を進むと、小さな村が見えた。
木造の家。
低い石垣。
畑。
井戸。
広場には、黒い鐘が吊るされている。
鳴っていない。
ただ、風が吹くたびに、鳴らないまま揺れる。
村の入口で、女性が待っていた。
薄い灰色の外套。
腰には薬草袋。
年は二十代半ばくらい。
彼女は俺たちを見ると、まず武器ではなく足元を見た。
ミオの足だ。
「痛めていますね」
ミオが少し身構える。
「はい」
「処置はされています。ですが、歩きすぎです」
「……はい」
「私はリセ。昔は聖女候補と呼ばれていました」
昔は。
その言い方が、妙に自然だった。
「今は」
俺が聞くと、リセは小さく笑った。
「ただのリセです。薬草を扱います」
ただの。
その言葉に、ミオが少しだけ目を伏せた。
リセは村へ入るよう手で示す。
「ノア様は後で来ます。まず休んでください」
「様なんですね」
「呼びやすいので」
「信仰ではなく?」
「ここでは、誰かを信仰すると面倒です」
かなり率直だった。
村の中へ入る。
住人たちは俺たちを見た。
警戒はある。
だが、歓声はない。
勇者様とも呼ばれない。
魔王の手先とも叫ばれない。
ただ、知らない旅人を見る目だった。
それがかえって落ち着かない。
カイトが眉をひそめる。
「誰も絡んでこないな」
「絡まれたいんですか」
「絡まれた方が分かりやすい」
彼らしい。
広場の端では、派手な服の女性が野菜を切っていた。
その横で、鎧姿の男が子供に木剣の持ち方を教えている。
リセが順番に指差す。
「彼女は元悪役令嬢候補。彼は元魔王軍幹部。今は夫婦です」
「情報量」
「慣れます」
元悪役令嬢候補の女性がこちらを見た。
「新入り?」
「まだ通過者です」
リセが答える。
「勇者?」
「未定」
「魔王?」
「候補」
「面倒なやつね」
それだけ言って、女性は野菜切りに戻った。
扱いが雑だ。
でも、雑だからこそ楽だった。
俺が特別扱いされない。
ミオも、保護対象として見られない。
カイトも、追放者として煽られない。
フロッグは。
「私は?」
リセが少し考える。
「カエルの方」
「雑ですねえ」
「嫌でしたか」
「いえ、わりと好きです」
フロッグは満足そうだった。
リセは村の奥の小屋へ案内した。
中には簡素な寝台と椅子がある。
彼女はミオを座らせ、足首の包帯を確認した。
「触ります。嫌なら言ってください」
ミオが驚いたようにリセを見る。
「嫌なら、言っていいんですか」
「もちろん」
「治療なのに」
「治療でも」
短い返事だった。
ミオは少し黙り、それから頷いた。
「お願いします」
リセは丁寧に包帯を外した。
手つきは慣れている。
だが、祈りの言葉はない。
女神の名も呼ばない。
ただ、傷を見て、腫れを確認し、薬草を選ぶ。
「聖女候補だったんですよね」
ミオが聞いた。
「はい」
「祈らないんですか」
「祈ると、昔の自分が喜びます」
リセは薬草を潰しながら言った。
「それが嫌なので、今は手で治します」
「昔の自分」
「誰かが痛がるたびに、少し嬉しかったんです」
リセの手は止まらない。
「癒やせる。必要とされる。聖女として正しい場所に立てる。そう思ってしまう自分がいました」
ミオは何も言わなかった。
俺も言えなかった。
リセの言葉は、俺にも刺さっていた。
「だから今は、祈る前に聞きます。本当に私に頼みたいのか。それとも、聖女候補だった誰かに頼みたいのか」
その言葉は、静かだった。
でも、重かった。
カイトが壁にもたれる。
「ここにいれば、ラベルは剥がれるのか」
「少しは」
リセは答える。
「でも、剥がれた後に何をするかは、自分で決めないといけません」
「面倒だな」
「自由はだいたい面倒です」
リセはミオの足に薬草を当てる。
「痛みます」
「はい」
「我慢しなくていいです」
ミオは唇を噛み、少しだけ息を吐いた。
我慢しなくていい。
その一言が、教会の保護よりずっとまともに聞こえた。
視界にログが開く。
黒鐘圏内。
称号表示:不安定
関係性ラベル:減衰
注意:
役割による保護補正も低下しています。
役割による保護補正。
つまりここでは、ヒロインだから守られるわけではない。
勇者だから助けが来るわけでもない。
それは自由だ。
同時に、怖い。
その時、村の入口で細い白線が揺れた。
糸のような光。
王都の方角から伸びてきて、灰門の向こうで切れかけながら、それでもこちらを探っている。
村人たちの空気が変わった。
逃げる者はいない。
だが、全員が少しだけ自分の名前を思い出すような顔をした。
「白鐘の追跡糸です」
リセが低く言う。
「ここまで来るんですか」
「普通は来ません。あなたたちが濃いのでしょう」
「濃い」
「勇者候補、魔王候補、救済対象、追放者。白鐘が好きな匂いが多すぎます」
言い方。
カイトが嫌そうに舌打ちする。
「燃やすか」
「白鐘糸は、攻撃すると相手を見つけます」
リセが即答した。
俺は白線を見る。
視界にログが開いた。
対象:白鐘追跡糸
用途:候補者ラベルの再固定
反応対象:
【勇者候補】
【魔王候補】
【救済対象】
【追放者】
注意:
強い自己定義、攻撃反応、保護反応に反応します。
「面倒くさい」
俺が呟くと、フロッグが頷いた。
「名乗っても見つかる。殴っても見つかる。守っても見つかる。実に嫌な糸ですね」
「どうすれば」
リセがミオを見る。
「役割で返事をしないことです」
ミオは少しだけ息を吸った。
白い糸が、彼女の方へ伸びる。
救済対象。
保護対象。
ヒロイン。
そう呼ぶための糸。
ミオは包帯を巻かれた足を床につけ、まっすぐ言った。
「私は、足を痛めた旅人です」
糸が揺れた。
俺の方にも伸びる。
勇者候補。
魔王候補。
救済者。
どれも違う。
でも、全部が俺に貼られようとしている。
俺は沈黙鈴を握った。
「俺は、レンです」
糸はまだ揺れている。
足りない。
名前だけでは、役割の輪郭が濃すぎる。
俺は周囲を見る。
ミオ。
リセ。
カイト。
フロッグ。
誰かを中心にすれば、糸がそこへ集まる。
なら、中心を作らない。
「カイト」
「何だ」
「あなたは」
「元追放者」
白い糸が伸びる。
カイトは顔をしかめ、言い直した。
「荷車を動かせる旅人だ」
糸が迷う。
フロッグが楽しそうに言う。
「私はカエルの方です」
「それでいいんですか」
「今は十分でしょう」
リセは自分の薬草袋を持ち上げた。
「私は薬草を扱うリセです」
白い糸の動きが鈍る。
視界に新しい表示が開いた。
【万能鑑定】の黒鐘圏適応を確認。
派生表示:【役割剥離】を一時解放。
条件:
対象を役割名ではなく、現在行動で観測。
役割ではなく、現在行動。
勇者ではなく、レン。
救済対象ではなく、足を痛めた旅人。
追放者ではなく、荷車を動かせる旅人。
聖女ではなく、薬草を扱うリセ。
「見えた」
俺は白鐘追跡糸を見る。
そこには、追うべきラベルだけがあり、今ここにいる人間の輪郭がない。
「こいつは、役割しか見てない」
俺は言った。
「だから、役割で返事をしなければいい」
黒鐘が揺れた。
鳴らない鐘が、音を吸う。
白い糸は数秒ほど迷い、やがて灰門の方へ戻っていった。
白鐘追跡糸:対象喪失
再固定:失敗
黒鐘圏内での役割剥離に成功。
息を吐いた。
勝った。
小さな勝利だ。
だが、たぶん必要な勝利だった。
リセがミオを見た。
「ここでは、誰もあなたをヒロインとして扱いません」
ミオの肩がわずかに揺れた。
リセは続ける。
「保護対象としても扱いません。魔王領の客としても、まだ扱いません」
「では、私は」
「足を痛めた旅人です」
ミオは目を伏せた。
泣きそうに見えた。
でも、泣かなかった。
「それは」
彼女は小さく言う。
「少し、楽です」
その時、広場の黒鐘が揺れた。
音はしない。
だが、村全体の空気が変わる。
リセが立ち上がった。
「ノア様が来ます」
黒い鐘は、鳴らないまま揺れている。
誰かが近づいている。
勇者でもなく。
魔王でもなく。
少なくとも、この村ではそう呼ばれていない誰かが。




