第三十五話 鐘の届かない門
グースは、封緘記録庫の棚にもたれていた。
ここが王国勇者庁本部であることなど、まるで気にしていない顔だ。
「不法侵入では」
俺が言うと、グースは肩をすくめた。
「商人にとって、扉は値段のついた壁だからね」
「犯罪者の言い分では」
「商売人の言い分だよ」
ユリウスが頭を抱えている。
「どこから入ったんですか」
「そこを売ると高いよ」
「買いません」
「堅いなぁ、王都の人は」
カイトがグースを見て鼻を鳴らす。
「怪しいやつばっかり増えるな」
「君ほど分かりやすく怪しい人も珍しいけどね」
「うるせえ」
いつもの調子。
だが、俺はグースから目を離せなかった。
沈黙鈴を渡した商人。
ノアの名を知っていた商人。
女神側の観測端末かもしれない存在。
そのグースが、灰門への道を売りに来た。
「代金は」
俺が聞くと、グースはにやりと笑った。
「話が早いね」
「無料ほど怖いものはないので」
「いい心がけだ」
グースは小さな紙片を取り出した。
白くも黒くもない、灰色の紙。
「灰門への通行手順。白鐘網の薄い時間。巡回の穴。黒鐘圏に入る時の注意。全部込みで」
「代金」
「君が勇者登録を拒んだ瞬間の感情記録」
部屋の空気が少し変わった。
感情記録。
また嫌な言葉だ。
「何に使う」
「売る」
「誰に」
「買う人に」
「答えになってない」
「商売の答えとしては十分だよ」
グースは笑っている。
だが、その目は少しも笑っていなかった。
「君が門前で勇者登録を拒んだ時、かなりいい熱が出た。恐怖、怒り、皮肉、自己確認、少しの快感」
「快感?」
「拒めた、という快感」
痛いところを突く。
俺は言い返せなかった。
勇者にされることを拒んだ時、確かに少しだけ気持ちよかった。
俺は流されていない。
俺は違う。
そう思える快感。
それもまた、重力になる。
フロッグが静かに言った。
「反抗も、軌道になりますからね」
「本当にいちいち刺しますね」
「刺さる場所にしか刺さりません」
ミオがグースを見る。
「その記録を渡したら、レンさんに何か影響がありますか」
「良い質問だ」
グースは紙片を指で弾いた。
「直接はない。記憶も減らない。心も削れない。ただ、誰かがその感情を分析できるようになる」
「女神教会が?」
「かもしれない」
「魔王領が?」
「かもしれない」
「あなたが?」
「それはもう見た」
正直すぎる。
俺は沈黙鈴に触れる。
レン。
自分の名前を内側で鳴らす。
反抗の快感。
勇者拒否の自己陶酔。
それも俺の中にある。
見たくないが、ある。
「分かった」
俺は言った。
「払う」
「レンさん」
ミオが少しだけ強い声を出した。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない時も、そう言います」
「それは」
「知っています」
言葉に詰まる。
ミオは俺を見た。
「払うなら、自分が何を払うのか分かった上で払ってください」
俺は頷いた。
「俺が勇者を拒否して気持ちよかった記録を払う」
声に出すと、かなり嫌だった。
だが、嫌だからこそ、見ておく必要がある。
グースは満足そうに紙片を渡した。
「商談成立」
その瞬間、視界に短いログが出た。
感情記録の一部譲渡を確認。
対象:【勇者登録拒否時反応】
注記:
反抗快感の自己観測により、軌道固定率が微減しました。
「減るんだ」
「見られた重力は、少しだけ弱まる」
グースが言う。
「完全には消えないけどね」
ユリウスは灰色の紙片を見た。
「灰門へ行くなら、二時間です」
「いいんですか」
「私は、あなた方が庁内記録確認のため別室へ移動したと記録します」
「かなり無理がありませんか」
「あります」
ユリウスは真面目な顔で言った。
「ですが、半日後には私でも止められません」
制度の中で、彼が作れる穴はそれだけなのだ。
「ありがとうございます」
「戻ってきてください」
その言葉だけ、少し個人的だった。
「戻れる場所なら」
「戻れる場所にしておきます」
俺たちは記録庫を出た。
白い廊下を抜け、裏階段を降りる。
グースの紙片には、王都の裏道が細かく描かれていた。
洗濯場。
荷馬車の待機所。
廃水路。
古い城壁の影。
勇者庁の白さから離れるほど、王都は普通の町になっていった。
怒る人。
笑う人。
値切る人。
昼寝する犬。
誰も俺を勇者と呼ばない。
それだけで、少し息ができた。
灰門は、王都の北西外縁にあった。
大きな門ではない。
人が二人並んで通れる程度の古い石門。
上には鐘が吊るされている。
だが、鳴っていない。
黒い鐘だった。
音を出さないまま、周囲の音を吸っている。
ミオが小さく息を呑む。
「静かすぎます」
「怖いか」
「はい」
正直な答え。
でも、彼女は一歩前へ出た。
「でも、行きます」
カイトが肩を回す。
「魔王領か。俺を嫌うやつはいるかな」
「期待しないでください」
「期待しないと落ち着かねえ」
フロッグが黒鐘を見上げる。
「白鐘は人に役割を思い出させる。黒鐘は役割を忘れさせる」
「良いことでは」
「名前まで忘れなければ」
門をくぐった瞬間、視界の表示が揺れた。
観測圏境界に到達。
白鐘網:減衰
黒鐘圏:接続開始
注意:
役割表示の精度が低下します。
勇者候補。
魔王候補。
その文字が、薄く霞む。
怖いほど静かだった。
でも、その静けさの中で、俺は自分の名前を思った。
レン。
まだ、消えていない。




