第三十二話 勇者庁の白い廊下
半日の猶予。
短い。
だが、何もできないほどではない。
ユリウスは、俺たちを控室に閉じ込めなかった。
「本来は、この部屋で待機していただくべきです」
「本来は」
「ですが、事情聴取のために庁内記録を確認する必要があります」
彼はそう言って、扉を開けた。
つまり、手続きの抜け道だ。
この人は制度の人間だ。
でも、制度と完全に同じ形をしているわけではない。
「感謝します」
「感謝されると、私が不正をしている気分になります」
「してるのでは」
「手続き上は、必要な確認です」
便利な言葉は、使い方次第で盾にもなるらしい。
俺たちは白い廊下を歩いた。
勇者庁本部の廊下は、異様に静かだった。
外の王都の喧騒が嘘のように遠い。
壁には歴代勇者の肖像画が並んでいる。
剣を掲げる者。
聖なる光を背負う者。
竜の首に足を置く者。
どれも立派だ。
立派すぎて、人間味が薄い。
「これ、本人たちに似てるんですか」
俺が聞くと、ユリウスは少しだけ困った顔をした。
「理想化されています」
「つまり似てない」
「記録画として必要な補正です」
補正。
まただ。
生きた人間を、後から見栄えのいい形に直す。
その果てが勇者譚なら、魔王記録もたぶん同じように作られる。
ミオが、ある肖像の前で足を止めた。
「ここ、文字が削られています」
額縁の下。
名前があるはずの金属板が、白い塗料で塗り潰されている。
塗り潰しているのに、下の文字の傷だけがわずかに残っていた。
「読めるか」
「全部は無理です。でも」
ミオは目を細める。
「旧……勇者……」
ユリウスの足が止まった。
「ミオ様」
「N」
廊下の空気が変わった。
白い壁が、少しだけ冷たく見えた。
俺は荷袋から白鐘杭を取り出す。
布越しでも、あの小さな刻印の感触は分かる。
N。
リュカの肩に打ち込まれていた杭。
台帳の余白に残っていた旧勇者N。
そして、勇者庁の廊下で塗り潰された肖像。
ミオは杭と金属板を見比べた。
「同じです」
「本当に?」
「完全に同じではありません。でも、最後の跳ね方が同じです。書いた人か、写した人が同じ癖を持っています」
書いた人。
写した人。
つまり、ノアの名前は魔族側が掲げているだけではない。
王都の白い廊下にも、確かに残っている。
ユリウスはしばらく黙っていた。
「その肖像は、封緘対象です」
「廊下に飾ってるのに?」
「塗り潰された時点で、公開記録からは外れています」
「外した記録を飾る意味は」
「戒めです」
ユリウスの声は硬かった。
彼自身がそう思っているのか、そう教えられてきたのかは分からない。
カイトが肖像を見上げた。
「見せしめだろ」
短い言葉だった。
誰も否定しなかった。
俺は肖像の顔を見る。
白く塗り潰された名前。
理想化された顔。
その目元だけが、妙に疲れている気がした。
視界にログが開く。
旧勇者N記録との照合率:上昇
白鐘杭刻印との一致:73%
注意:
公開勇者記録と秘匿魔王記録が同一対象を参照している可能性があります。
「七十三」
低くはない。
だが、まだ決定ではない。
世界はいつも、確信の直前で黒塗りを置く。
フロッグが首を傾げた。
「不思議ですね」
「何がです」
「本当に消したいなら、壁ごと外せばいい」
「確かに」
「でも残している。名前だけ消して、姿は残している。つまり、彼らは忘れたいのではなく、別の意味で覚えていたいんです」
「戒めとして?」
「あるいは、次の誰かに同じ恐怖を覚えさせるために」
廊下の先に、別の扉が見えた。
封緘記録庫。
その横に、小さく別の札が掛かっている。
分類外転生者記録。
カイトがその文字を見て、顔を歪めた。
「俺の匂いがするな」
「嫌な表現ですね」
「嫌な場所だからな」
ユリウスは鍵束を取り出した。
「カイト様の記録も、おそらくこちらです」
「様を付けるな」
「失礼しました、カイト」
カイトは一瞬だけ変な顔をした。
名前で呼ばれることに、慣れていない顔だった。
扉が開く。
白い廊下の奥に、紙と革と古いインクの匂いが流れ出した。
俺の視界の端で、白鐘杭の刻印が小さく黒ずんだ。
まだ誰にも気づかれていない。
ただ俺だけが、それを見た。
Nの傷が、白ではなく黒に沈み始めていた。




