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第三話 最初の救済

 森の奥へ進むほど、空気が湿っていった。

 木々の隙間から差し込む光は細く、足元には根が絡み合っている。走るには向いていない場所だ。それでも俺の足は止まらなかった。

 止まれなかった、と言うべきかもしれない。

【救済衝動】が反応しています。

対象候補:閲覧不可

状態:恐怖、孤独、負傷

行動優先度が上昇しています。

「分かってる。うるさい」

 自分のスキルに悪態をつく日が来るとは思わなかった。

 三度目の悲鳴が聞こえた時、俺は茂みを抜けた。

 小さな沢のそばに、少女が倒れていた。

 年は十五、六くらいだろうか。灰色がかった銀髪が泥に汚れている。薄い外套は裂け、足首から血が滲んでいた。

 その前に、男が二人。

 革鎧に短剣。腰には縄。人相は、まあ、分かりやすく悪い。

 片方の男が少女の髪を掴んで引き起こそうとしていた。

「手間かけさせんなよ。教会印つきの商品なんざ、傷が増えるほど値が下がるんだ」

「や、やめて……」

 少女の声は掠れていた。

 俺は反射的に飛び出しかけた。

 しかし寸前で足を止める。

過去周回行動と一致。

推定行動:正面から割って入る。

一致率:74%

 飛び出してどうする。

 俺は剣聖ではない。治癒師でもない。戦闘経験のない男が、ナイフ一本で武装した二人に勝てる保証なんてない。

 まず見る。

「【万能鑑定】」

名称:奴隷商の追跡者

状態:慢心、軽度疲労

危険度:中

装備:短剣、投げ縄

弱点:右膝の古傷

名称:奴隷商の追跡者

状態:警戒、空腹

危険度:中

装備:棍棒、短剣

弱点:左視野が狭い

名称:ミオ

状態:恐怖、飢餓、右足首捻挫

危険度:低

備考:女神教会保護記録あり

 ミオ。

 少女の名前を見た瞬間、胸の奥がかすかに熱くなった。

 知らない名前だ。

 なのに、どこかで何度も呼んだ気がした。

 男が少女を引きずる。

「立て」

「いや……」

「聞き分けろ。こっちも仕事なんだよ」

 仕事。

 その言葉に、なぜか腹が立った。

 人を縄で縛って連れ戻すことにも、そういう名前を貼れば許されるのか。

 俺は小石を拾い、木の幹に向かって投げた。

 コン、と乾いた音が響く。

「誰だ!」

 二人の男が振り向いた。

 俺は別の茂みに身を沈め、もう一つ石を投げる。今度は逆方向。

「魔物か?」

「いや、人だ。隠れてやがる」

 警戒心の強い方が棍棒を構えた。もう一人は少女の髪から手を離し、短剣を抜く。

 よし。

 少女から離れた。

 俺は大きく息を吸う。

 怖い。

 ものすごく怖い。

 でも、ここで見捨てたら、たぶん俺はこの世界で最初の夜を眠れない。

 俺は茂みから飛び出した。

「おい」

 声が少し裏返った。

 二人がこちらを見る。

「その子、嫌がってるだろ」

 短剣の男が鼻で笑った。

「なんだ、お前。冒険者か?」

「通りすがりの善良な一般人だ」

「じゃあ死ぬな」

 男が踏み込んでくる。

 速い。

 けれど、鑑定が赤い線を引いた。右膝。古傷。

 俺は正面から受けず、沢のぬかるみに足を滑らせるふりをして後退した。

 男が追ってくる。

 踏み込んだ右足が泥に沈んだ瞬間、俺は水を蹴り上げた。

「うわっ」

 男の視界が水しぶきで潰れる。

 俺は低く飛び込み、右膝を横から蹴った。

 鈍い音。

 男が悲鳴を上げて崩れる。

「てめえ!」

 棍棒の男が迫る。

 左視野が狭い。

 俺は相手の左側へ回り込む。棍棒が空を切った。肩をかすっただけで、腕が痺れるほど痛い。

 まともに食らえば終わる。

 俺は腰のナイフを抜き、男の手の甲ではなく、握っている棍棒の革紐を切った。

 棍棒が滑り落ちる。

 その一瞬、少女が動いた。

 ミオは震える手で足元の砂を掴み、男の顔へ投げつけた。

「ぐっ」

 男が目を押さえる。

 俺は指示していない。

 彼女は助けられるのを待ったのではなく、自分で隙を作った。

「助かる!」

 俺は落ちた棍棒を拾い、男の腹へ叩き込んだ。

 加減はできなかった。

 男は呻いて膝をつく。

 右膝を押さえた男が、這うように逃げ出した。

「覚えてろよ!」

「できれば忘れたい!」

 叫び返すと、男たちは森の奥へ消えていった。

 静寂が戻る。

 沢の音だけが聞こえた。

 俺はその場に座り込みそうになる膝を叱りつけ、少女の方へ向かった。

「大丈夫か」

 ミオは身を強張らせた。

 無理もない。ついさっきまで追われていたのだ。俺が助けたからといって、すぐ信用できるはずがない。

「近づかない。怪我だけ見る。嫌なら言ってくれ」

 俺は両手を見せながらしゃがんだ。

 ミオはしばらく俺を見ていた。

 その瞳は薄い青で、泣き疲れたように赤くなっている。

「……どうして」

「ん?」

「どうして、助けてくれたんですか」

 答えに詰まった。

 正義感。

 偶然。

 放っておけなかった。

 どれも嘘ではない。

 でも、今の俺には別の答えも見えている。

 救済衝動。

 中心重力。

 同じ軌道。

「助けたいと思ったから」

 結局、俺は一番単純な答えを選んだ。

 それ以上は、今この子に背負わせることじゃない。

 俺は干し肉と水袋を差し出す。

「名前は?」

「……ミオ、です」

「俺はレン。町まで行くつもりなんだけど、歩けるか?」

 ミオは俺の顔を見た。

 その表情が、不意に揺れる。

「レン……さん」

 呼び方が、妙だった。

 初めて名前を聞いた人間の声ではない。

 ずっと忘れていた名前を、やっと思い出したような声だった。

「今、俺の名前を聞く前に知ってた?」

「え?」

「いや。気のせいならいい」

 ミオは戸惑った顔で首を振る。

「分かりません。でも……そう呼ばなきゃいけない気がして」

 その瞬間、視界にログが開いた。

警告。

あなたは過去17回、この少女を救出しています。

救出後の同行率:100%

恋愛関係移行率:82%

主人公死亡率:76%

少女死亡率:41%

備考:今回、対象者の自発的抵抗を確認。

 息が止まった。

 十七回。

 この少女を。

 俺はゆっくりとミオを見た。

 ミオは不安げに俺を見返している。彼女には、この表示は見えていない。

 知らないのだ。

 自分が十七回も救われていることを。

 そして俺も、知らなかった。

 自分が十七回も、この子を救っていたことを。

「レンさん?」

 ミオが小さく呼ぶ。

 俺は答えようとして、声が出なかった。

 森の中、沢の音が同じ調子で流れ続けている。

 世界は何も変わっていない顔をしていた。

 ただ俺だけが、今、自分の足元に同じ道が何本も重なっているのを見てしまった。

ここまでが初日の導入です。

次話、ミオが名乗っていない名前を呼んだ理由に近づきます。


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